東京メトロノウム

umekob.(梅野小吹)

東京メトロノウム

 カチ、カチ、カチ──チン。


 きんと耳を劈く、切迫した風の音はどこへやら。しんと静寂に包まれた世界で、秒針にも似た空虚なリズムが波形を刻む。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 早鐘を打つ自身の鼓動よりも速い一定のテンポ、数拍毎に響く鈴の音。それ以外には何も聴こえない。周囲の喧騒やざわめきも、飛び込む私を見た人々の悲鳴でさえも。


 私の手足は繋がったままで、呼吸もどうやら、まだ続いている。けれどおかしい。


 私、たった今、あの地下鉄のホームから線路上に飛び込んだはずなのに。

 鈍色の風に頬を打たれ、そのまま消えてしまいたかったのに。



「──どうして、生きてるんだろう」



 ぽつり。呟いた声は私のものではなかった。

 はたと顔を上げて隣を見れば、そこには見知らぬ若い男の姿。私と同じように不思議そうな顔をして、線路上に座り込んでいる。



「……え」



 互いに顔を見合わせたまま、私達は声を揃えた。



「──もしかして、君も?」



 カチ、カチ、カチ──チン。


 一定の感覚で、東京メトロのホーム内にはテンポを刻む音が響く。周りの人々も、世界も。まるで凍りついたかのように動きを止め、微動だにしない。死んであの世に来てしまったのかとも思ったが、どうやらそういうわけでもない。


 私は瞬きを繰り返し、向かい合う彼と共に黙り込んだ。やがて彼から視線を逸らした私は、きっとあとほんの一瞬遅ければ私達の体をバラバラにしていたであろう電車の表面に触れる。


 二人の命を砕く寸前で動きを止めてしまったそれは、ひんやりと冷たく、やはり動かない。



「……僕達、時間を止めちゃったのかな」



 カチ、カチ、カチ──チン。


 また、どこかで鳴り響く音。ああ、これはメトロノームの音だろうか。幼少期に習っていたピアノ教室で、同じ音を聴いたことがある。



「……そんな馬鹿げたこと、あるわけないでしょ」



 若い男の言葉を真っ向から否定して、私は重い腰を上げた。そのままホームへ戻ろうと踵を返せば、男も立ち上がってついてくる。



「ちょっ……待ってよ、お姉さん。どこ行く気?」


「決まってるでしょ、戻って周りを確かめるの。ていうか、こんなの夢に決まってるし」


「あー、夢かあ。だったら納得、その意見大賛成」



 男はニッと明るく笑い、私と同じくホームに戻ろうと高い壁をよじ登る。飛び込んでみて初めて知ったけれど、ホームと線路の間って、結構な高さがある。彼は難なく登れたようだが、線が細く小柄な私には難易度が高い。



「大丈夫? ほら、捕まって」



 苦戦している私を見下ろし、男は手を差し伸べて引き上げてくれた。無骨な彼の手に引かれた私は、ようやく線路の外へと脱する。


 ホームの床にぺたりと座り込み、こぼれ落ちたのは安堵か落胆かも定かでない深い溜息。「良かった、無事に登れて」と破顔する彼にお礼のひとつも言えないまま、私はふいと顔を逸らした。


 駅にたむろする人々は、やはり凍りついたまま動かない。相も変わらず鳴り続けるメトロノームの振り子の音が、カチ、カチ、カチ、と耳に残る。



「ほら、やっぱり時間が止まったんだよ」



 そう言った彼に、私は首を振った。



「……そんなわけない。こんなの夢」


「そうかなあ」



 とん、とん、とん。メトロノームの拍子に合わせ、男はスニーカーの爪先を地面に打ち付ける。


 緩い靴紐、濃いデニムのスキニーパンツ、英字のロゴが印刷されたアイボリーのロンT、カーキのジャケット。頭には黄色いニット帽、そして首元にヘッドホン。「スマホも繋がんないや~」と呑気に笑う目の前の彼は、いかにもイマドキの若者、という風貌で、何の悩みもなさそうに見えた。


 ──私とは、まるで大違い。



「あ、そうだ、外に出てみる? そしたら何か分かるんじゃない?」


「……何かって、何が?」


「何かは、何か!」



 からりと笑い、彼は駆け出す。「ちょっと待ってよ!」と叫んだけれど、まるで柴犬のような彼は「早く早く!」と構わずホームを走り抜けた。


 スニーカーの彼と違い、私の格好はコートとリクルートスーツにラウンドトゥの合皮パンプス。ヒールの高さは低いといえど、履き慣れていない靴で走るのは容易な事ではない。


 けれど周囲が凍りついている以上、この場に留まったところで何も起こらないのも分かっていた。私は肩を落とし、先日黒く染め直したばかりの結い上げた髪を揺らして仕方なく彼の後に続く。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 耳慣れ始めた振り子の音。どこからともなく鳴り響くそれを聴きながら、私は改札へ続く階段を一段ずつ上がった。

 先に駆け上がった彼は今頃改札の向こうへ出ていった頃だろうか。そう考えた私だったが、すぐにその予測は覆される。

 階段を登り終えた先、改札のすぐ手前で、彼は立ち尽くしていたのだった。



「……どうしたの?」


「出れない」


「は?」


「この先。なんか見えない壁があって、進めないんだ」



 じっと前を見据え、彼は続けた。すぐさま早足で近寄って確かめてみれば、彼の言うように見えない壁のようなものに阻まれて前へ進めない。



「本当だ……」


「あーあ。閉じ込められちゃったね、僕ら」



 まるで他人事のようにのたまい、男は笑う。私は眉根を寄せて一瞬彼を見上げたが、「……どうせ夢なんだから、どうだっていい」とすぐに悪態をついて顔を逸らした。


 そうだ、どうせ、これは夢。

 いつしか何の脈絡もなく終わりがやって来て、また、つまらない一日の始まりを告げる朝が訪れる。


 そうしたら今度こそ、あのホームから飛び出して、鈍色の風と共にこの世界から消えてやろう。


 そう考え、私は虚空を睨んだ。



「……早く、目覚めないと」



 けれど、それから何秒、何分、何時間経っても──凍りついたままの東京メトロの構内が、彩りを帯びて再び動き出すことは無かった。




 *




「飲む?」



 ちゃぷん、と液体の揺れる音。俯いていた顔を上げれば、男がオレンジジュースを差し出している。


 しかし空いたベンチに腰掛けた私は、力なくかぶりを振った。



「いらない……」


「まあまあ、そう言わずに!」


「っ、ちょっと……!」



 きっぱり断った私だったが、彼は強引に私の手を取ってオレンジジュースの缶を握らせた。「お金入れたら、自販機使えた! 新発見!」と無邪気な笑顔を向けられて、根負けした私は結局それを受け取ってしまう。


 簡素なベンチに並んで腰掛け、かしゅ、と音を立てる缶のプルタブ。“果汁四〇パーセント”と記載されたそれを控えめに喉に流し込み、止まったままの電車を見つめた。


 一体、あれから何時間経ったのだろう。いつまで待っても、世界は呼吸を失ったまま。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 けれど耳に届くメトロノームの音だけは、延々と一定の波形を刻み、まだ鳴り止んでくれそうにない。



「──ねえ、お姉さんはさ、どうして死のうとしたの」



 その時不意に、隣から投げかけられた問い。ちらりと男を一瞥すれば、彼もまたオレンジジュースを口にしながら遠くを見ている。



「……別に、対した理由なんてないよ」



 か細く答え、私は再び俯いた。



「就活にことごとく失敗して、周りとの隔たりがどんどん大きくなって、色々嫌になった……ってだけ。本当は、この後もまた面接の予定だったの」


「……」


「でも、どうせ今回も落とされるんだろうなって考えた時、ふと思ったのよ。いま線路に飛び込めば、面接行かなくてもいいなあって。私の“市場価値”の低さを、思い知らされなくていいんだなあ、って……」



 視線を落とし、些か尻すぼみになりながら言葉を紡ぐ。


 大学四年、冬。未だ内定なし。

 次々と周りの就職先が決まる中、愛想も悪く秀でた資格や経歴も持ち合わせていない私は、いとも容易く“余り物”になった。


 元々のプライドの高さも相まったのか、言うほど多くの会社から落とされたわけでもないのに、心なんてものは簡単に折れた。

 自分の値打ちを他者と比較され、社会から『不用品』だと通達される日々。「次はきっと大丈夫だよ」と励ましを贈る周りの声ですらも、本当は後ろ指をさして笑っているのではないだろうかと疑心暗鬼になってしまって──。



「それで、もういいやって飛び込んだの。ただ、それだけ」



 オレンジジュースの酸味を嚥下し、今度は私が彼を見上げて問い掛ける。



「逆に、あなたは何で? ニコニコして人当たりも良さそうだし、悩みなんてなさそうなのに」



 カチ、カチ、カチ──チン。


 繰り返す四拍分の振り子が、聴き飽きた鈴の音を鳴らした後。彼は自身の足元を見つめたまま、口を開いた。



「……みんな、僕の事をそう言うよ。明るい、いつも楽しそう、悩みなんてなさそう──って」


「……え」


「だけどさ、明るくていつも笑ってる人が、何も悩んでないなんて誰が決めたの?」



 こくり。喉を流れたオレンジが、どこか苦い渋味を運んでくる。

 遠くをぼんやりと見つめる彼の瞳は、まるで濃霧のうむがかかったように濁りを帯びて見えた。



「……僕は、違うと思うんだ。明るく振舞ってる奴ほど、きっと泣く場所なんてどこにもない。弱音を吐き出す勇気がない。溜め込んだ負の感情を周りに見せないように必死で、怒りや哀しみを噛み潰してばっかり。笑うのなんて苦しいのに、笑ってないともっと苦しい」


「……」


「負の感情を容易く表に出せるような人になりたいわけじゃない。でも、僕は、時々ああいう人達が心底羨ましくなるよ。僕はこんなにも必死に感情を取り繕っているのに、アイツらは簡単に、『自分がこの世で一番不幸だ』って顔をするんだ。不公平だよね」



 彼はどこか遠くを見つめ、酷く冷たい声を発した。霧がかかるその表情に、私はつい息を呑む。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 また、メトロノームの音が耳に届いた頃。ふと彼は振り向き、柔らかく破顔した。



「……なーんちゃって! 嘘だよ、本当は対した理由なんてない」


「……え」


「ほら、なんか理由もなく消えたい時ってあるじゃん? そんな感じだよ。僕、気まぐれだからさ」



 へら、と笑って下がる目尻。けれどやはり、その笑顔に渋味を感じて私は目を逸らした。


 おそらく彼の言葉は、嘘ではない。明るくて人当たりの良い彼なりに、その笑顔の下では色々と思い悩むことがあって、あの決断に至ったのだろう。


 よくよく考えてみれば、“明るい人”というのは、一体どこに負の感情を吐き出しているのだろうか。


『あの人は明るい』

『ずっと笑ってる』

『悩むことなんてないだろう』

『いつも楽しそうなんだから』


 そんなレッテルを貼り付けられた彼は、周りから期待される“市場価値”に全身を埋め尽くされて、助けを求める声すら出せずにいたのではないか。


 そう思案した時、同時に思い知る。


 ああ、結局のところ私も、私を品定めしたあの面接官達と、思考は同じだったのだと。



 ──彼という人間の“値打ち”を、勝手に定めてしまっていたのだと。



「……ごめんなさい」



 ジュースの缶から唇を離し、蚊の鳴くような声量でそう告げる。

 小さく紡いだ謝罪の言葉は、メトロノームの音が響くホーム内でやけに鮮明にこぼれ落ちた。



「……なんで謝るの?」


「私、あなたを無意識に値踏みしてたから……大した悩みなんてないんだろうって、どうせ恵まれて生きてきたんだろうって。……そんな人が、私と同じタイミングで、あの場所に飛び込むわけないのにね」


「……」


「ねえ、本当のあなたは何を抱えていたの。笑って生きるのが嫌になるぐらい、重たいものを背負っていたんでしょう?」



 ──ここは夢の中なんだから、教えてよ。


 そっと続けて、彼を見つめる。すると視線が交わり、ほんの少しだけ泣きそうな顔で、やはり彼は柔く笑った。



「……来て。こっち」



 やがておもむろに立ち上がり、彼は空になった缶をゴミ箱に捨てて歩き出す。私も同じく缶を捨て、彼の後に続いた。


 暫くして辿り着いたその場所は、人でごった返すホームの突き当たり。そこにひっそりと立て掛けてあったのは、黒いギターケースだった。



「僕さ、ミュージシャンを目指してたんだ」



 彼はギターケースを手に取り、留め具を外して中を開ける。



「でも、全然思うように結果が出なくて。二十歳の誕生日までに芽が出なかったら、実家の家業を継げって親から言われててさ」


「……うん」


「で、昨日がその誕生日だった。……結局僕は、ずっと鳴かず飛ばずのまま、何の成果も出せなかったってわけ」



 ぽつぽつと語る彼のギターケースの中に入っていたのは、たくさんのステッカーが貼られたアコースティックギターと、白い封筒。“遺書”と記されたその封筒を開ければ、中からは本日付けの飛行機のチケットが出てきた。



「このチケットで、今日、実家に帰って来いって言われてたんだ。ははっ、ムカつくよね。どうせ東京で成功なんかしてるわけないって決めつけて、わざわざ先週送り付けて来たんだよ、これ」


「……」


「でも、夢半ばのまま言いなりになって田舎に帰るのがすっごい癪でさ。親への当て付けのつもりで、これを遺書って事にして、衝動的に人生諦めようと思っちゃった。……だけど──」



 彼はそこまで口にして、一旦言葉の続きを飲み込む。

 そしてまた柔く目尻を緩め、手にしたギターケースの中の白い封筒をその中身と共に突如びりびりと破り始めた。



「──なんか、こんなことで人生も夢もぶっ飛ばすなんて、よく考えたらアホらしいな」



 はらり。風のないホーム内で、線路に散っていく彼の遺書。


 何も言えずに硬直した私に構わず、どこか吹っ切れたような表情で顔を上げた彼は、「よっ」と身軽に線路へと飛び降りる。


 私は慌てて声を張り上げた。



「えっ……!? ちょ、ちょっと! 危ないよ!」


「あはは、大丈夫だよ。自分だってさっきここに飛び降りたくせに」


「そ、そうだけど……」



 ぐうの音も出ず口篭った私に背を向け、彼は線路上に落ちていた何かを拾い上げる。すると再び踵を返し、ホームへよじ登ると「ほら、大丈夫だった」と笑って戻ってきた。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 メトロノームの音に紛れ、戻ってきた彼は私に近付くと今しがた拾い上げたばかりの何かを私の目の前に掲げる。その手の中にあった物は、使い古されて塗装の剥がれた一枚のギターピックだった。



「……僕、今日、飛ぶ前にさ。これを先に線路に投げ捨てたんだ。自分の夢も、人生も、諦めるために」


「……!」


「でも、また僕の手の中に戻ってきちゃった。こんな事ありえないのにね。……時間が止まって、君に会えたからかな。君が僕の女神様だったのかもしれない……なんてね!」



 冗談混じりに笑った彼は、優しく目を細めて私の手を取る。



「……ねえ。これが、ただの夢でも、夢じゃなくてもさ」



 カチ、カチ、カチ──チン。


 メトロノームの音が響く中、彼は緩く閉じていた私の手の指をひとつずつ丁寧に開き始めた。直後、ギターピックを隠した自身の手のひらをその上に重ね、彼は続ける。



「僕は君と出会えたおかげで、自分の抱いた夢の続きを、まだ見ていたいと思えたよ」



 カチ、カチ、カチ──チン。


 きゅう、と力の籠る手。硬直する私に彼は微笑み、そっと、自身の手のひらを開いた。



「ありがとう。君がここに居てよかった」



 そして、彼のピックが私の手に渡った、瞬間。


 ──ゴオッ!!



「……っ!?」



 突如、静まり返っていたはずのホームに風を裂く鈍い音が響き渡る。同時に、ざわめく駅の喧騒と人々の足音、電車の到着を告げるアナウンスの声が一斉に本来の色彩を取り戻した。


 ──元に、戻った……!?


 突として動き出した時間。目を見開き、私は唖然と言葉を失う。しかしややあって我に返り、ハッと自身の周りを見渡した。


 だが、ずっと一緒にいたはずの彼がどこにも見当たらない。



「……え!? ちょっと、ねえっ──」



 思わず大声で名前を呼び掛けて──迫り上がった声は、喉の手前でぴたりと止まる。


 ……分からない。名前が。



(そうだ、私達、お互いの名前も名乗ってない……)



 よく見れば、先程までホームの突き当たりにいたはずの私の居場所も変わっている。改札へ続く階段下の、ベンチの前。最初に私が飛び降りた場所だ。


 だが、私はもちろん線路上には降りておらず、轢かれて死ぬ予定だった鈍色の電車は何事もなくホームに到着した。扉が開いて大量の人波が雪崩なだれ込み、ざわざわ、途端に満ちる喧騒。メトロノームの音は、もう聴こえない。


 ──全部、夢?


 久しく耳にする騒音に顔を顰め、困惑しながら呆然と立ち尽くす。「ドアが締まります、ご注意ください」と耳馴染んだアナウンスが響く中、閉まって行く扉の向こう。


 ふと、黒いギターケースを背負った男の後ろ姿が見えた気がした。



「……っ! 待っ──」



 待って、と言いさして、前方に手を伸ばした直後。その手からこぼれた何かが、ホームの床にぱたりと落ちる。


 ついそちらに視線を落とせば、それは彼のギターピックだった。



「あ……」



 転がり落ちたそれに気を取られている間に、彼を乗せた電車は発車してしまう。即座に身をひるがえすが、もう遅い。閉まった扉に行く手を阻まれ、ぬるい風を纏い、暗いトンネルの奥へと遠ざかって行くそれを──私は黙って見送る事しか出来なかった。


 過ぎ去る風に髪を乱され、立ち尽くす、死に損ねた私。


 東京メトロは動き出し、煮え切らない感情の残痕を散らして消えていく。


 揺らぐ、揺らぐ、何も見えない、地下の濃霧の向こうへと。



「……夢、だったのかな……」



 動き出した世界の片隅で、私は落ちたピックを静かに拾い上げる。鈍色の電車が見えなくなって、不快な風だけが残された、いつも通りの駅のホーム。


 夢うつつの狭間に置き去りにされたかのような複雑な思いを抱えた私は、彼の残したギターピックを握り締め、ぽつりと一言呟いた。



「……面接、行かなくちゃ」




 *




『──では、本日のお天気です。東京の空には晴れ間が広がり、春の陽気に包まれて、比較的過ごしやすい一日となるでしょう。続いて、全国のお天気を──』



 ──ぷつん。


 テレビの電源を落とし、茶色く染め直したばかりの長い髪を結い上げる。


 窓の鍵を施錠した事を確認し、部屋の電気と換気扇もしっかり消して、私は真新しいスニーカーに足を通した。



「行ってきます」



 とん、とん、とん。複数回爪先を打ち、誰もいない家の中に呟く。ドアを開け、お守り替わりのギターピックが揺れるリュックを背負って、私は朝の街へと踏み出した。


 暖かな春の風は、無事に社会人として一歩を踏み出した私の背中を押しながら髪を撫ぜる。桜の木には新緑が目立ち始め、歌う小鳥が楽しげに私の横を飛び去って行った。


 あの日、思い直す事無く再び線路に飛び込んでしまっていたら、こんな穏やかな朝の東京を知る事などなかったのかもしれない。

 そう考えつつ、やがて最寄りの駅へと辿り着いた私は九時十四分の地下鉄に乗って普段通りに目的の場所へと運ばれていく。


 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。


 東京メトロが揺れるたび、いつも私は無意識に黒いギターケースを探してしまう。しかしいくら探せど彼とは巡り会えず、今日も今日とてピックの持ち主の姿は見つからぬまま、数十分後には目的の駅まで辿り着いてしまっていた。


 ピッ……、ピッ……、ピッ……。


 流れるように、当たり前に。誰もが改札にスマホやICカードを翳して、容易く外へと出ていってしまう。


 あれ以来、地下鉄の構内に閉じ込められる事も、凍りついた人々が動きを止めることもなく、私の日々も当たり前に続いていた。

 けれどあの幻から醒めた今でも、私の心はまだあの日の濃夢のうむに囚われたまま。


 駅を出て青空を一瞬仰いだ私は職場へと続く道のりをぼんやりと歩きながら、今頃どこにいるのかも定かではない彼の姿を脳裏に思い描く。


 ──ねえ、君はまだ、君の描いた夢の続きを追いかけていますか?


 この世界のどこかで、ギターを鳴らしているのでしょうか。


 私は、今──。



「……あれっ?」



 と、その時。不意に私の足が止まる。


 考え事をしながら歩いていたせいだろうか。いつの間にか見覚えのない道へと迷い込んでしまったようだった。


 つい最近入社したばかりの私は、未だに会社への道のりをきちんと把握しきれていない。はあ、と無意識に眉根を寄せて嘆息する。



「あー、しまった……曲がるとこ間違えたかな。でも多分方向は合ってるはずだし、そのうちきっと知ってる道に──」



 カチ、カチ、カチ──チン。



「……え」



 ぶつぶつと独り言をこぼしていた私の言葉は、ふと耳に届いた振り子の音によって遮られた。ぴたり、足を止め、音のした方向へと身をよじる。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 あの日と同じく、一定のテンポで鳴り続くメトロノーム。遠くから聴こえるそれに導かれるように、私は無意識に足を踏み出していた。


 最初は、一歩一歩確かめながら。けれどすぐに明らかな確信をもって、駆け出す。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 繰り返す一定の波形を追いかけて、追いかけて。やがて辿り着いたのは、若い男の人が一人でぽつんと座り込む、薄暗い高架下。


 視界に捉えたその人は、落書きや汚れが目立つその場所の壁に背を凭れ、傍に置いたメトロノームのリズムに合わせてアコースティックギターを鳴らしていた。

 そんな高架下にふらふらと足を踏み入れ、私はようやく動きを止める。


 そこで夢の続きを奏でていたのは──黄色いニット帽を被り、黒いギターケースを傍に立て掛けている、彼だった。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 響くメトロノーム、アコースティックギターの音色。

 指の腹で弦を弾き、旋律を刻むその姿を、私は息を乱しながら静かに眺めた。


 些か躊躇いながらも、一歩ずつ。

 ゆっくりと、彼に近付く。


 程なくしてついに二人の影が交わった、その瞬間──高架線の真上を電車が通り抜けた。


 ゴウン、ゴウン、と鈍い音を立て、頭上を駆けるそれがほんの数秒で通り過ぎていく。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 一瞬の喧騒が過ぎ去り、その場に再び四拍間隔のメトロノームの音が戻ってきた頃。


 彼はおもむろに顔を上げた。



「……就職、決まったんだ?」



 あの日と同じ声色で問われ、私は暫し口を噤む。けれどすぐに表情を綻ばせ、また彼に一歩近付き、その場にしゃがみ込んだ。



「……小さい会社だけどね。それなりに、楽しく働いてるよ」


「ふーん、そっか。良かった」


「君こそ、実家の家業はどうしたの? 継ぐんじゃなかった?」


「それがさ、聞いてよ。もう少し時間くれって親に頼み込んで、怒鳴り合いになったけど強行突破してやったんだ。初めて誰かの前で、あんなに負の感情を表に出したよ。いまだにちょっと喧嘩中だし」


「あーあ」


「でも、後悔はしてない」



 彼は目を細め、私のリュックにぶら下がるギターピックに触れる。何かを払拭したかのような穏やかな笑顔を私に向けて、彼は続けた。



「──僕の見たかった夢の続きを、君が今、こうして見せてくれているから」



 指先がピックを撫で、優しい言の葉が紡がれる。


 彼の口にする『夢の続き』は、“あの日の夢の続き”なのか、それとも“彼の描いた夢の続き”なのか。それは分からない。


 けれどきっと、そのどちらの夢も、今まさに繋がって、続いているのではないかと思う。


 カチ、カチ、カチ──チン。


 四拍毎に鈴が鳴る、一定の振り子のリズムに乗せて。濃夢に飲まれる東京で、巡り会った私たちは夢の先へと歩み出す。


 私はやんわりと破顔して、名前も知らない彼の手に、リュックから外した使い古しのギターピックを手渡した。



「ねえ、私も見てていいかな。君の夢を……君の、一番近くで」



 高架下に吹き抜ける風が、明るく染め直した私の長い髪を揺らす。


 東京メトロは、とっくに過ぎ去り霧の向こう。


 君はゆっくり頷いて──ほら、今、やっと──私達の世界は、動き始めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

東京メトロノウム umekob.(梅野小吹) @po_n_zuuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ