第58話 冷めた体温

 よく旨みが凝縮され、一級品と称されるカレイの干物を食す。とある地方では、土地の支配者への納税がこの干物で代用されたともいい、干物を売る商いの者はその影響力を増していった。


 清盛は思う。権力を得たいならば、上り詰めればいい。階段を登ることをなおざりにして、新しく権力の器を作ることに意味などあるのだろうか。東国で自らを新皇と称した者は無様に討ち取られたではないか。帝以外の器は要らぬ、その器にであればよい。


 屋敷をすり足で進む者の足音がする。清盛は箸を置き、そのものの報告を障子越しに聞いた。


「——そうか。うまくいかなんだか」


 何代前の帝の血を引いているから、なんだ。そんなものは何の役にも立ちはしない。帝の血を引く者が尊いならば、臣籍降下の末の子はなぜ虐げられねばならないのか。


 所詮は双六よ、と清盛は独り言つ。敗れた者は敗れた者でしかない。親王にもなれなかった人間が、令旨など出して靡く馬鹿がいるか。


 園城寺の間者に毒入りの水を注がせた。各々疑心暗鬼が募り、同士討ちでも始めてくれたならば幸いである。


「——ん?」


 報告は終わったはずなのに、忍びが去った気配はない。用がないならば去れ、と命じようとして、ぐらりと眩暈に体が揺れる。まさか——


「殿のご計画通り、かの地では結束に綻びが、士気に翳りが出ているようでございます」


「聞いた。そなた、女、か? 名はなんという」


「サトにござりまする。私どものカレイはおいしゅうございますか」


 清盛は混乱して、ふと我に返る。そうであった。私は病に侵され、このごろは瓜しか喉を通らない。


 では、先ほどまで私はなぜ干物を食べていた?


 気づいたときには、忍びの気配は消えていた。何だったのだろう、いま目の前には食べかけの瓜がある。


 気配が消えても、サトはそこにいたままである。とうの昔に死ぬはずだった藤助を、天の理に適った生へと戻した。しかし、彼はしぶとく生き残ったらしい。改められた過去において、藤助は鳴海と名乗る行商に拾われ、商いを覚えてたいそう幸せそうに生きている。


 藤助が不死身の隼人として多くの旅人の命を奪った過去は消えた。平時人として、疫病神に取り込まれそうになりながら園城寺の群衆に死をもたらした過去も消えた。サトはその有り様をずっと見ていた。


 このまま清盛が権力を持ち続ける世もあった。しかし、サトはそれを選ばなかった。


 過去改変が起きた、不死身の隼人が死んだ瞬間まで歴史が追いつくまで、サトは清盛の忠実な臣下となり、その横暴に手を貸した。そして、以仁王の挙兵。このいくさは、清盛の勝利に終わる。しかし——


 その後に清盛の死があることは確かだった。


 清盛も、隼人の親を死なせた疱瘡を患っている。疱瘡神はいま力を弱め潜伏しているが、清盛が生きている限り、隼人にしたようにいつその体を乗っ取って力を盛り返すかもしれない。


 煙のように目に見えない疫病の種を、摘み取っておきたかった。清盛は、必ずいくさで死ななければならぬ。死んで疱瘡神の養分となるのも、生きて疱瘡神の傀儡になるのも、防がなくてはならない。


 サトは消えゆく意識を、最後に東国に向ける。


 自分が歴史から抹消されることで、きっと万事うまくいくと願って……

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