第56話 あわれ、我が子

 来てはいけないよ、藤助ふじすけ。こちらには怖い鬼がいる。お父上とかあさんが、力合わせて退治しているんだ。だから、来てはいけない。ここでしばらく待っているんだよ


「ははうえ……」


 自分に家族がいることなど、ついぞ思い浮かばなかった隼人から、己を産み落とした者を呼ぶ言葉が吐き出された。彼がそ言葉にどんな情感を込めたのか、彼自身が一番わからない。どこか物欲しげで、吐息のようで、非難するようで、甘えるような声を隼人は解釈できない。それでも、声の主は微笑んだ。


「あなたは様々な名で呼ばれたゆえに、自分の魂を見失っている。藤助と私が呼んだ者と、サトという娘がハヤトと呼んだ者は同じ人間です。あなたは地続きなのですよ」


 ハッと隼人は目を見開いた。多数の腕と目を持った化け物は存在せず、自らの母の声ももはや聞こえない。


 驚く間もなく、左側の肩関節と股関節に圧迫される痛みが生じ、バネが弾けるように左半身が、あるいは、風を感じ、躱された太刀が皮膚を切り裂く痛みを覚え、また、先ほどまでしなかった金属音と悲鳴が聞こえるようになった。右半身も同じようであった。


「なぁ、聞こえる? 隼人はん」


 一番、この肉体に馴染んだ名前。一番、長くこの命とともに在った名前。その名前が染み渡る。先ほどからずっと、この名を呼ばれ続けていた気もする。


 時人ときとという名を与えられ、武士になった。彼に名を与えた武士の頭領は彼の魂を縛り、彼が自由に生きることを望まなかった。時人という名が、鳥籠になった。だからこそ、隼人は、その外から呼びかける声に気づかなかったのだろう。


「隼人はん……。薬師である、ウチを信じてほしい。足元を見て、野の草を摘んで食べて。そう、その蒲公英黄色の花の草を」


「わかっ、た」


 脚を畳み、腰を折り、その草の根元を摘んで引っ張った。隼人と呼ばれた不死の子が、最後に奪った命であった。


「おい、お前——ッ」


 今まさに野草を摘んだ手を、じゃらじゃらと甲冑をつけた者が踏みつけた。


「お前、ただで——、ただで済むと思うなよ、仲間を殺したのはお前だろう! この、疫病神が!」


 隼人の手に鈍い痛みが走った。その痛みは隼人の意識を一瞬だけ薄れさせ、隼人の意識の中に潜り込んでいたサトは、弾かれてしまった。もう隼人の魂に、直接話しかけることはできない。


 呪いが切れて、サトの肉体と魂は剥がされてしまう。その痛みに耐えながら、サトは隼人がしゃがんでいる方に視線を向ける。


 隼人が手を踏みつけている武士をカッとなって殺さないか。再び闇に落ちて疫病神の意のままになってしまわないか。そんなことよりも、ただ、彼がその手に持った、蒲公英を口に含んでくれるように祈りながら……

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