第53話 熱冷まし 其の四

 すぅ、と息を吐き、少しだけ空いた空間に空気を満たす。肉体を伴わない呼吸は苦しさしか生じない。吸う息も吐く息も存在しないのだから、息をすればするほどに、息ができない苦しさを味わうことになる。


 それでも、サトは止めない。むしろ、吐く息の量をひと呼吸ごとに増やしていった。倍々で増えていく、息のできない苦しさを、ものともせずにまた強く吐く。それは、サトに一縷の望みがあったから。


 いま、サトは肉体との関係を薄められた状態にある。サトは、魂と肉体を繋ぐが、逆に繋がれてしまっている。生きるために必要なことをすると死に近づくように仕組まれている。倒れた自分の肉体を見下ろしたときに、それは確認済みだった。


 それならば、苦しいことをすれば生に近づくということになる。呪いを魂に施されたからには完全に元には戻れないのだろうが、もう少しだけ、肉体の支配権を取り戻すことはできるはずだ。


「すぅーー、ぅーー、うぅーーーー」


 肺はおろか、胃も肝も腎も、すべての臓の内容液を絞り尽くすように、体をくの字に曲げて、曲げて、曲げて…………


「ひゃいっ!?」


 脳天が足裏に、足裏が額に移ったかのような奇妙な感覚にのけ反ってしまう。玉の緒が捻れたままであるのに、魂が肉体に|らしい。


 サトが生業としているのは、ヒトの体とその病の治癒に関しての諸々である。呪いというものは知識にない。恐らくは、玉の緒の捻れはあの老人にしか治せないのだろう。サトはそう考えて、少しだけ自らの肉体との距離をとる。魂が逆転したまま肉体に戻ったら、人間であれるかどうかも怪しいと感じていた。


 サトは苦しい呼吸を続けながら、張り詰めた糸を渡るように、自らの肉体への接触を図る。


 ——少しだけ、指先が動いた。


 この調子なら、声も出せるはず。どれだけ小さい声でも、隼人に届く言葉を探す。


 届いてほしい。いや、届けなければいけない。


 お母君のことか。病のことか。彼の身に巣食う呪いのことか。あるいは——


「隼人はん——」


 笑ってしまうくらいに、掠れて頼りない声だった。しかし、サトはもう迷わなかった。


「あんたを唆したのは、あんたの大切な人を奪った病


 以仁王の屋敷のそばで邂逅した疫病神は、隼人の記憶も断片的に有していた。だからこそ、サトは疫病神のいくさへの関与に気づけたわけだが、疫病神が宿していたのは隼人の記憶だけではなかった。


 熱に魘され消えゆく意識の中で、大切な人を守ろうと手を伸ばした数多くの魂の記憶。その記憶たちの見る景色は、季節や視線、屋敷の大きさ、看取る人の有無やあるいは寡多、果てには時代まで様々である。


 歴史が始まってから多くの人々を死に追いやってきた病は、犠牲者の魂によって悪神として顕現したのだろう。


 どれだけ時間が経っただろうか。空気がピリピリとひび割れていく。


 サトは、今度こそ意識を完全に失った。

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