第52話 熱冷まし 其の三

 平時人、すなわちサトの知る隼人は、ずっと前から戦場にいた。


 既に言葉は失われ、肉体もその感覚もない。


 ふわふわと浮いているようなで移動しては、空っぽの胃を鳴らして血を零す。ぽた、ぽたと地べたにつく血の色は、ほんのわずかに桃色がうかがえるだけの、ほぼ透明であった。


 その血の色は、彼がもはやことを暗示する。さすがのサトも、そこに血があると知覚できなければ血の過去を嗅ぐこともできない。


 浮遊する時人は、まだ意識がはっきりとあったときに、平清盛から下された命を思い出していた。


『ただそこにおればよい。そこにおるだけで、敵は滅びる』


 カーッ、カーッと血を吐いて、ふと、彼の全身から力が抜けた。


 ——ふん、役立たずが


 そんな声が聞こえた気がした。園城寺を囲む、森の中から。


 不死身と言うからには、長く耐えられると思ったのだがな


(耐える……? なにを…………?)


 ただそこにいるだけでよいと命じられたはずが、自分は何を耐えているというのか。時人は混乱する。しかし、それも束の間、意識が山芋のようにすり潰されて、何も考えることができなくなった。


 ただ、これで自分はやっと死ねるのだという安堵が、時人の魂を満たしていった——



「隼人はん?」


 サトは懐かしい声が聞こえた気がして、目をこらす。園城寺境内は、武者たちの雄叫びで騒々しい。精神を張り詰めないと、声を聞き分けられない。


「——!?」


 腕を後ろに、肩を固められ、膝の裏を蹴られ抵抗もできずに崩れ落ちる。神経性の毒でも嗅がされたのか、変な捻り方をしたはずの足首に痛みがない。


「また邪魔をされては、困るのだよ」


 その声は。


 疫病でほぼ全滅した村で出会った、反乱に失敗した老人だった。


「おま、え、この、やろ、う」


「苦しいか。そうだろうな。あのときお前が武家どもを誑かさなければ、わしは屋敷を持てたのだ」


「ウチのせい、や、ない。あんさんが、招いた、業、や」


「しぶといオナゴよの。あやつと同じように、呪いでお前の魂を縛ってやろう」


「のろ、い……?」


 次の瞬間、老人の手がサトの胸に伸びた。胸の皮膚と肉が、粥のようにぐちゃぐちゃとまさぐられた。やがて目当てのものを探り当てたのか、老人の手は止まった。


「見つけたぞ」


 チクリ、と蜂に刺されたような痛みが走った。何かを感じる間もなく、サトは眠りに落ち、すぐに目覚めた。


(なんや…….これ。ウチの身体が下にある。ウチは死んだんか? ほんならなんで身体の上から動けへんのや)


 老人の言葉を思い出す。呪いによって、魂を縛ると老人は言った。


(死ぬに死ねへん……そういうことか! あのジジィ、やりおったな)


 悔しさで歯噛みする一方、先ほどまで見えなかったものが見えることにも気づく。


 ごった返す境内に、幾多の人影をすり抜けるようにして移動する影。歩みによる肩の上下がなく、滑って移動しているように見える。


(なるほどな。死ぬに死ねへんのは隼人も同じっちゅうわけか)


 サトは、心を決めた。

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