第47話 血の在り処

 決起、失敗。これは負け戦になる。胸ぐらを掴まれ激高されているというのに、彼はどこか他人事だった。


 反乱軍の長が和議の誘いを蹴ったとあらば、いくさは避けられない。だが、彼は平家方であるがゆえに、平清盛がどれだけの兵を揃え、どれだけの軍備をなしているか、少なくとも以仁王よりは知っていると自負している。だからこそ、そのあたりの詳細を以仁王に説明し、誰も死なないよううまくまとめるつもりであった。


 徹底抗戦ならいい。彼の父、源頼政と以仁王はここで袂を分かったという、それだけのことだろう。しかし、権力あるいは親王宣下に執着し、得た権力を振るうことに焦がれていたはずの以仁王が、負けるだけのいくさをするとは思えなかった。


「聞いているのか、博雅どの。そなたは我が殿を欺いた、そう言われてもおかしくはない。実際欺いているのやも知れぬ。信じたくはないが、な。もう一度聞く。これはそなたの失敗なのか、計画のうちなのか、お聞かせ願いたい」


「これも計画のうちでございます」


 放心していた魂をやっとのことで呑み込んで、彼は言った。そう言わないと、武者としての誇りが守れない気がした。


「左様か、ならば……!?」


 ズチャ、と肉塊が落ちる音がする。その首を以仁王の屋敷のなかにポゥンと放り投げて、何食わぬ顔で路地を出ては、武者たちの行列に戻る。


「博雅さま」


「以仁王が逃げた。これより追討する」



 その路地を一つ西に入ったところで、人ならぬ人影がぼぉ、と浮かんでは、人としての輪郭に近づいていく。その手には、文が握られていた。


「和議の文、やな」


 影は声の主に気づき、サッと煙のように天に昇ろうとする。しかし、杭でも打たれたかのように、煙は空中の一点の周りをもどかしく浮遊するだけだった。


「隼人をどうするつもりや」


「……ふん、小細工を。予め私が来ると踏んでのことか、気に障る」


「質問に答えや!」


 気つけの薬を香にして炊いてある。影の意識は、この世に繋ぎ止められて、隠り世に戻るのを許さない。隠り世は死に近い者が引き寄せられる場所でもあり、気つけ薬はその二つの世の門を閉ざす役割を持つ。——しかしそれもまた、香が消えるまでの束の間だけのこと。


 実態のない存在に薬を飲ませるには、香にして嗅がせるしかないと考えての、サトの機転。だが、それはサトにとって不利な短期決戦を強いられたということでもある。焦りがサトの身を蝕んだ。


「その文があれば、いくさは避けられたんや。その文があれば、隼人はいくさに出ずとも済んだんや」


「彼奴はいくさに出たがっているが、止めたいのか。残酷な娘よの」


「なんやて?」


 サトは怒りを隠せない。それを嘲笑うのは、人ならぬモノ——疫病神であった。


「私はに、苦しまねば生きられぬ業を与えた。いま、は安らいでいる。は完全体になるまであと一つのところにあるのだ」


、やて……? 人間をモノのように言いよって、腹の立つ!」


「実際、モノではないか。私がこのようにして手のひらで空気を撫でれば、人がバタバタと死んでいく。私にできないことはない」


「治すことは、ようやらん癖に! それで全知全能をよう名乗れたもんやなぁ」


「……ふん。時間切れだ」


 影は消えた。サトは怒りに身を任せ、神の目的を掴み損ねてしまった。へなへなと腰が砕け、地面に座り込んでしまう。その肩に、妙に湿気のある風がすぅ、と通った。


 その風には、血の臭いがべったりと付いていて、サトの脳内に誰かの記憶がなだれ込む。


「これは……?」


 火矢が飛び交い、木屑が燃える大地。人間の死体が仄かに灯る熾火おきびの揺り籠になり、雷雲で視界は暗く、生きている者は誰もいない。


 サトには他人の血を被れば、その人の記憶を見ることができる異能がある。世の終わりともいえる記憶を覗き見て彼女は思う。生きている者が誰もいない記憶を、誰が持てるというのか。


 これは、もしかして、確定的な未来を見ているのではなかろうか。


 止めなければ。何としても。さもなくば——


 隼人もあの骸の一つになってしまう。

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