第42話 行軍
清盛邸は朝から騒がしかった。誰も彼も大鎧に身を固め、カシャカシャと金具の擦れ合う音を立てている。
士気は、お世辞にも高いとは言えなかった。他ならぬ総大将の命が不可解であったからだ。
『起こすはずのないいくさであるが、行って未然に防がねばならぬ』
清盛にとっての理想郷になるはずだった、福原に入り浸り、京に帰ってきたと思えばこれである。目覚めながらに悪夢を見ているようなその焦点の合っていない両眼は、持病の悪化を噂させた。
異様なまでに粛々と、気怠げにいくさ支度は続く。そんななか、とある家臣が不審がった。
「頼盛様は何処じゃ。この大事なときに」
頼盛もまた、静かにいくさを待っていた。頼盛の静けさは、士気の低さに依るものではない。
二者が対峙する盤面の双六を、ただ見届ける評定者のような。鳥が都市を二つも三つも天から俯瞰するような。
何色の賽が出るか。風向きはどちらに振れるか。
「私は、平家が分裂さえしてくれればそれでい」
運命共同体として、共に滅ぶのではなく。保元の乱でも平治の乱でも、帝の血筋や藤家は一族で分裂したが、それゆえに滅びなかった。枝葉のように増え、子々孫々が多く、彼らが互いにいがみ合うくらいでちょうどいい。
「頼盛よ」
凪いだ湖面のように静かだった頼盛の書斎に、外の雑音が侵食する。戸を開けて入ってきたのは、清盛だった。
「……兄上」
「弟よ、聞け。わしはこの平家が、互いに剣先を向け合うような世は嫌じゃ。矢を射かけ合い、居館を燃やすようないくさは嫌じゃ。わしはもう、長くない。平家一丸となって、反乱分子の掃討に力を貸してくれるな?」
「はい。もちろんです」
兄上は甘い、と胸の内で吐き捨てる。その心を読まれまいと、臣従を装って頭を垂れる。権力者どもの内部抗争に巻き込まれ、この家がかろうじて生き残ったのは、平家も源氏も真二つに分たれたからではないか。
「…………わしはもう……叔父を斬りたくはないのじゃ」
その声が、いたく弱々しくて、頼盛は顔をあげる。胸がざわつく。平家当主である、清盛の言い分の方が正しいのではないか。私はいたずらに平家の内に分断を作り、それを弱体化させているだけなのではないか。そんな迷いが胸を去来する。
対立する羽目になった身内を、この兄は、自らの腕で処刑したという。それは、もう二度とこんなことは起こすまいとする決意のためであったのだろうか。
「さあ。準備はできているな」
「……はっ」
弱々しい声など、幻であった。そう思わせる朗々とした声で、清盛はその弟に決意を促した。弟は、項垂れるしかなかった。
ーー兄上。
以仁王をそそのかしておきながら、それを兄上に密告したのは、私です。
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