第36話 胤

 クルミの殻をかち割って、よく炒って食べる。山の湧き水を手で汲んで飲み、腹を下したところで満足に休めもしない。手負いの獣がそうするように、彼らも猟犬からの追跡を恐れて何度も川を渡った。


 初夏の日差しとはいえ、山の湧き水は指がかじかむほど冷たく、旅人に覚悟を問うようであった。


「あぁ、チクショウ」


 よき世を目指して共に旅をしていた者も、話が違うと離れていった。鳴海についていくよりも、今までの生活の方がマシだ。我々は自分の生活をよくしたいから付き従っていただけで、成るともしれない計画のために骨を埋める気はない。どれも、覆面の同行者に言われたことだ。ーーごもっともである。


 ーーーーしかし、サトはなぜか鳴海のことを見限れない。鳴海が脾胃を悪くし、薬草を探しに行きたくとも、『私を裏切る気であろう』と離してくれない鳴海のことが。


 よき土地を、と鳴海は言った。朝も夜も、うわ言のように口にしている。神話の血脈を継ぐ帝という存在を戴く朝廷、それに対抗できうる強大な権力。その権力の受け皿になる土地は、それ自体が堅固な要塞でなければならぬと鳴海は考えているらしい。


 理想論だ、とサトは心の中では切り捨てている。隋や唐、その他脈々と続く大陸の帝国が我が国を本気で支配下に置こうとしないのは、かの国と我が国が荒れた海で隔たれているからだ。第二の力なんて、同じ国の、ましてや陸続きの土地に立てられるはずがない。


 その鳴海には、あろうことか、新しい権力者の擁立の計画がない。誰か心当たりがあるのかと思えば、それもない。力の受け皿だけ決めたところで、命をくだす者がいなければまつりごとはままならないではないか。


 白河院の落胤と噂される平清盛さえ、帝にはなれない。帝の実のお子であっても、母親の実家の力如何によっては東宮の候補にすら上がらないことだってある。


 その点、清盛の考えは理にかなっていた。いや、平家が最初に始めたことではない。藤原家がやっていたことである。新しい東宮の教育を務めれば、新しい帝を補佐し申し上げる存在へ一歩も二歩も近づけるのだ。


「なんで、六波羅の殿の元を離れたん」


 この無計画で節操のない男についていくとしても、聞いておかなければならないことだと思った。


「はぁ?」


「禿や検非違使、はたまた都に巣食うならず者でも説き伏せて、直に反乱を起こし、まつりごとを機能不全にしてやったらよかったんと違うん。なんでわざわざ、都から遠くに行くんや? すげ替える人形の頭は近くにあったんやろ」


 振り返った鳴海の顔が伏せられる。逆光だからか目元が暗く表情が伺えない。しかし、鳴海の額に青筋が立っているのであろうことは、長く共に旅をしてきたサトには予想できた。


 来る、とサトは身構えた。自分をために飛んでくるであろう拳骨が。


 しかし、しばらく経っても、頬にも脳天にも痛みはなかった。その代わりに、気味悪いほどの優しい声色が耳に届く。


「サト、どうした? 故郷でも寂しくなったか?」


「え……? ううん」


「そうか。ならばいいんだ。最近はずっと苛立ってて申し訳ない」


 どういう意図でそんなことを言うのだろうか。今までのことを許してほしいのだろうか。それとも、とうとう気が触れたのだろうか。土地勘もない、友もいない、そんな状況で大きなことを成し遂げなくてはならない重圧に。


 サトは鳴海の次の言葉を待つ。鳴海はというと、なにかを言いあぐねているように視線を泳がせる。そして、一言。


「サトは、いや、サト様は、あの殿のお子なのでしょう」


 さぁ、と血が下っていく。頭が回らない。サトは、自分の体ひとつ支えられず、くずおれてしまう。


 鳴海の口調がおかしいことにも気づかないまま。

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