第35話 世捨て人

 夏の初めだというのに、木枯らしのような冷たい風が吹いた。心なしか、庭の草木もカサカサと揺れる。青々とした葉が生い茂っているというのに、季節外れである。あるいはこれは自分の幻聴であったかとも考えたが、妙にその感覚が生々しい。


 夢現ゆめうつつ、そのどちらを人は生きているのだろう。人はどれほど強い苦しみを受け、どれほどその改善を願ったとしても、上り詰めればそれを忘れてしまう。草をかき分け土を踏みしめて立った者が、地を焼き払おうとするのはなぜなのだろう。


 そういえばあの青年はどうなっただろうか、と老人は頬に手を当てて思案に耽った。人ひとりが横になれば埋まってしまうほどの小さな庵に世の人の眼差しから隠れるように住み始めて、もう三ヶ月になるだろうか。


 頬を預ける腕を変え、またも思案に耽る。余生を注ぎ込むと決めた医学書の筆は乗らない。


 殿からの最後の命令は、自らの影武者となるべき青年の怪我を治すことであった。身体のあちこちに異様な瘤がある青年だったが、その一つを焼いた針で突き開いたことを老人は思い出す。そのときはハッとし、思わず目を背けたものだ。


 青年には、疱瘡の痕があった。それが瘤の始まりであり、ひいては彼の「不死身」のごうの始まりでもあろう。そう当たりはつけてみたが。


「私にはもう関係ないことじゃ」


 そうつぶやき、首を振って青年のことを頭から追い出そうとした。そうすると、今度は老人にとっての大切な存在が浮かんだ。


 その娘はサトと名乗り、公家のような言葉を使いながらも、捨てられ身寄りがないと言った。医術のことを学びたいとうるさいので弟子にしたが、老人自身が「あのお方」のお抱えの薬師になることを告げると、途端に顔を青くし、老人の元を去っていってしまった。


 行く先は知らせず文も寄越さず、よって老人の側から便りを遣わすこともなかった。あの少女はいま、どこにいるのだろうか。

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