第29話 出頭

 かび臭い部屋に押し込められ、何日経つだろう。藻塩は狂人のフリをするのが得意ではない。


 土壁が欠け、崩れ、蜘蛛の巣が糸を巡らしている。非常に腹立たしいことに、彼の頭髪にさえ糸を巡らし蜘蛛の巣の基礎にしているらしい。ハエやブヨの類いが網にかかりそれを揺らすたび、頭部に不快感をもよおす。


 なにはともあれ、藻塩にとっての目下の目標は、自分が死なないことだ。庶民にとって、権勢を誇る六波羅殿に目をつけられるのは恐怖以外のなにものでもない。


 糞尿を垂れ流し、無感情に虚空だけ見つめる。貴方様に逆らいません。私は愚かです。間違っても、貴方様に反旗を翻すなどと。


 商人は田畑を潤す水のように地方から地方へと出向き、客が必要としているものを整える。必然的に、各地の事情に詳しくなる。


 西国に流罪になった公家たちが、清盛の目の届かないところで、厳島神社を勢力圏に取り込もうとした。その手引きをしたのが自分であった。


 なんなくその試みは暴かれ、藻塩も追われる身となった。彼は、塩水で喉を焼き、燃ゆる水石油を顔にかけて火を放ち大火傷を負った。別人になりすまし、民草に紛れていたが……何の因果か、六波羅殿と取引をする大商人も、身をやつし民草のなかにいた。


 その大商人は、藻塩の陰謀をつきとめ清盛に密告した張本人、藻塩が追われる身となった憎むべき元凶である。彼を再び見たときは、冷や汗どころの騒ぎではなかった。


 彼は、権力者から商人の自治を守ろうと組織を作っていた。どの口が言うのか問い質したかった。権力に靡き逆らう者を弾圧する手助けをした癖に——けれど、それを問い詰めることは、自分があのときの工作員であったと自供するにも等しいことだ。奴の本性を知っているのにそれを追及できず、逆にこちらの素性が暴かれる恐怖もある。綱渡りである。


 いや、もしかすると、すでに自分の素性はバレているのかもしれない。いや、きっとすべてを知ったうえで、泳がされているだけなのか? 藻塩は疑心暗鬼を募らせ、自分は殺される定めにあると思い悩むようになった。


 ならば、そのを潰すしかない。どんな嘘を舌の上で転がそうと、どんな無様だろうと、死にたくない、生きたい。


 焼くや藻塩の身もこがれつつ


「私は待ち望んでいる。自治組織の長の後継を任ずるとき、にこやかに微笑み私を祝福し、しかし鋭い目つきで侮蔑してきたあの男を除外する日を……」


藻塩もしおと言ったか。風流な名よの」


「はは、よく言われます」


 よもや聞かれたか? 背筋に脂汗が伝う。


「ワシは忙しいのだ。弁明なら手短にせよ」


 急に現れて心を乱そうってつもりらしいが、そんなわけにはいかない。今日になって朝方に、何の説明もなく目隠しをされたのは、いま思えば、病を患う「彼のお方」を私が見ないようにするためだろう。


 一発逆転の秘策なら、ずっと考えていた。自分が助かり、「彼のお方清盛」の顔馴染みを排除する良策。


 清盛と仏具の取引をしている商人を死なせたとて、肝心の清盛の勢力が削がれるわけではない。ーーしかし。なにせ、彼は死が怖かった。


「法皇とその家臣が、貴方様へ反旗を翻すおつもりです」


「ーー?」


 荒唐無稽に思われたかもしれない。しかし、演じきるしかない。


「本当なのです。貴方様のご権勢をやっかんで、まつりごとの実権を握るおつもりなのです。『ただでさえ京のまつりごとは複雑すぎる。帝を院がお支えし、院が武家と手を結ぶなどと……』と仰せで」


 調べによれば、は法皇とも取引があるはずだ。怪しまれないはずがない。


 ふぅむ、と声が聞こえた。息とも言えるかも知れない。それは無意識で、かつ本性を曝け出す、思考の残りカスのようなもの。


「左様か。よくやったぞ。では、


 赦された……やり過ごした。そんな安堵が、分厚い雲に覆われていく。


 追って沙汰を待て


 まるで罪人に罰を与えるときのような……?


 悪く思うなよ、と囁く声がした。刹那、体が上に跳ねる。手足を縛られているのに、なぜ


 いや、跳ねたのは頭だけだったのかもしれない。

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