第30話 無辜

 禿かむろという赤い衣のわらべたちが、音もせず都を歩き回り、平家打倒の密談あるや、瞬く間に知れ渡り潰されてしまう。それは重々承知ではあったが。


 民草の噂になる前に潰された陰謀があり、藻塩はまだ帰らない。この二つの事象に関連があるのかはわからなかった。しかし、一つ確かなのは、先代の長の御患いは嘘だったということ。


 何食わぬ顔で商人の自治組織に現れては、長の不在に混乱する彼らを導いた。毎朝の市はつつがなく執り行われ、人々の喧騒も戻り、売り手と買い手の商談があちこちで活気を帯びる。確かに、彼は救世主だった。しかし、彼の患った病で現れるはずの痘痕がない。そんなことがあるだろうか。


 私にはささやかながら医術の素養がある。痕を癒してしんぜようと全身の視診を申し出たが、ぎょっとしたような顔で睨まれた。すぐに、『急に話しかけられたゆえ……』と彼は目を逸らしたが、私の元から足早に去る必要はなかったはずだ。


 怪しい。とても、怪しい。あの男は、商人あきんどの禿だったのではなかろうか。献上した食物に毒が混入していたという事件の前後だけ、彼は都合よく責任者の任を退くことを許された。そんな都合のいいことがあるだろうか。


 見習いなのだから一心に付き従えと命じられ、私は藻塩の側を離れず商いのイロハを学ぼうと精進した。だから、私は都の地理にさえ明るくない。もしや、と胸にもやがたつ。もしや、そんな事件は存在しないのではないだろうか。


 こうしてはおれぬ。駆け出そうとしたそのとき、グイと首に腕を回され、身体が浮く感覚がして、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。


「ーーッ、あなたは」


「そんなに怯えるなよ小僧。気心知れた仲じゃないか」


 藻塩とよく笑い合い、酒を飲み交わしていた、杉売りの女。女人であるが図体は武者のそれで、他の杉売り五人分の丸太を楽々と肩に背負っていたっけ。


 寡黙で愛想のない女と思っていたが、こいつも奴のーー


「小僧、知りたいか」


「……え」


「お前のお師匠さまのことだ。知りたくないならば教えぬ」


 知りたいに決まっている。だが、怖い。それに、なぜこの女は、私の首を締め上げながらそんなことを言うのか。


「二度とは言わぬからよく聞いておけ。お前のお師匠さまは、殺されたよ。手に足に真っ赤な爛れただれをつけて、それでもなお、熱湯を浴びせられて」


 どうして、と叫ぼうとした。首を押さえられ息ができないけれど、それでも周囲に聞こえるようにと目一杯叫ぼうとして、急に腕を解かれた。息が逆流し、咳き込んでしまう。


「なぜそんなことになったのか、知りたいなら確かめてこい。お前も男ならば、な」


 苦しさに両手で胸を掴みながら、憎しみを込めて女を見上げる。どの口が言うか、と思った。すべて知っている口ぶりで、無責任だろう、と。その眼差しを知ってか知らずか、女は消え入るような声を残していった。


「わらわはオナゴゆえ、止められなんだ。いまも尚、幼い我が子を取られまいと奴に従うている。だが、お前ならば、このようなことが起こらぬ世を、あるいは……」


「末摘花」


「……はい」


 侮辱されるようなあだ名を、なぜ受け入れたのだろう。その疑問は、名を呼んだ者の顔を見ればすぐに理解できた。


 知られてはならないことに、勘づいてしまったから。藻塩と仲が悪かった覚えのない商人仲間たちが、ソトモノを見る目でこちらを見つめている。無力な、飼われた鳥の目。自らの翼で飛び回る力を奪われた目。


 いつからそうだったのだろう。私は思考を巡らした。いつから、藻塩は周囲に敵だらけで、孤立無援のまま戦わされていたのだろう。


 そんなんじゃ、無能のフリをするしかない。


 商いの腕は確かと見込んで弟子入りした。だが、私は藻塩のことを見くびっていたのかもしれない。


 息はまだ整わないが、私は一目散に駆けた。あの女がどうなってしまうのかは、考えたくもない。

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