第25話 何者
医師の老人が板間を去った。刹那、凄まじい嘔気と突き上げるような心の臓の拍動、背中から槍で突き刺されたかのような痛み。隼人の両脇で彼を押さえつけていた、それなりに鍛錬されたはずの男二人が、苦しさに体を捻じ曲げた隼人に体幹を奪われ転倒する。
逃げ出さぬよう厳重に管理せよと厳命されていた二人は、肝の冷える思いですぐに体勢を整え、隼人の体を押さえつける。さすがに、ずっと床に伏しているほどの柔な者ではない。
しかし、逃亡の危険性があるとされた隼人に、抵抗の動きは見られなかった。体を縛る縄を引き腕に体重を乗せて背を押さえつけたが、体を捻るだけで、起きあがろうという背からの反発力がない。上半身を起こさないことには足を踏み出すこともできないだろう。
「逃亡の意思なし。だが引き続き警戒を怠るな」
「はい」
訓練された二人には、言葉は少なくていい。むしろ、あまり会話をするなと躾けられている。そのおかげで、考えを巡らすには打って付けだった。
うゔともああともとれる言葉にならないうめき声をあげるだけの隼人は、罪人というよりも病人でしかないと思う。聞かされている業務の内容としては、異例なことではあるが罪人を登用するゆえ逃亡を防止せよ、とのことだ。顔色は変えないまま心の中で失笑する。
(異例なこと、とな。お上は痴呆でも患っておられるのか)
命を彼に告げた上官でさえ、大っぴらに嘘をつくことにうんざりしている様子だった。つい一ヶ月前も同じことを言ったばかりではないか。しかし、誰もそのことを指摘しない。お上の言うことを疑うことは許されていない。
(むしろ、無茶苦茶な命令をすることで、聡すぎる者や反抗の兆しかある者を炙り出しているのだろうな)
自分よりは階級が下であるとだけ告げられている顔も知らない同行人が、密告をしないとも限らないのだ。
馬鹿正直にお上に付き従うことを命じられてはいるが、彼らの業務は表向き存在してはいけないもの。まつりごとの動静を嗅ぎ分けられる勘がなければ、たちまち潰されてしまう。
こちらを立てればあちらが立たぬ、とはこのことだ。
(難儀なことよ……教練で教わった綺麗事は何も役に立たず、唯一役立っている者といえば
とす、とすと足音が近づいてきた。次にこの
「私を知っているか」
「…………?」
「はは、知るはずもなかろうな。だが、わしとお前は似ているぞ」
隼人は苦しみでそれどころではない。言葉が聞こえているかどうかさえ、怪しいと男は感じた。ただ、前に座る人間が変わったことだけを認知しているのではなかろうか、と。しかし、座した人は隼人のことを気にせずにしゃべり続ける。
「わしに流れる血は貴賤混合しておる。この世の誰も、帝の御息女と浮き名を流せばその子は貴族になるが、下向先で遊んでできた子は名さえない。どうだ? お前もそうだろう? 名さえ持たぬ孤児と聞く」
立板に水を流すように語り合えて、上座が声を発した。
「どうだ? 太政大臣も務められた入道に仕えないか。わしのような無法者も重んじてくださる方ぞ」
まつりごとは嘘つきばかりだ。男はそう思った。上座に座るその人は、まつりごとの一線を退いてからも、依然影響力を持ち続ける時の権力者に重用などされていない。言葉が軽く説得力がないのは、この場にいることを内心快く思っていないことが原因だと男は見た。
「どうだ? 卑しい身分であるお前には過分な申し出であろう」
隼人と生い立ちが似ているというのなら、自身の生い立ちも貶すような言葉は使わないだろう。過分な、という言葉も、本音が漏れたと言っていい。どこの馬の骨かわからない者と顔を突き合わせ話さなくてはならないことがよほど屈辱なのだろうか。
出自が訳あって隠される人は少なくない。しかし、上座の男の語りは、彼の予想の通り嘘であった。相手との共通項を捲し立てさえすれば気持ちが靡くほど交渉事は易しくないだろうに。あるいは、卑しい者相手だから甘く見たのだろうか。
隼人はというと、額を床にグリグリと押し付けるだけで、知らぬ間にうめき声もあげなくなっていた。案の定、侮辱されて怒っているのだろうと思った。
その予想は、当たらなかった。隼人は、小さく死に続けることに囚われたまま、それ以上でも下でもない。
「私を斬ってくれ」
隼人の口から出たのは、文脈を一切反映しない、死への耐え難い欲求だった。
「なんだって?」
「早く斬ってくれ」
話は一向に交わらぬまま、沈黙の時間が過ぎた。
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