第20話 背中

 サトは熱にうなされていた。漁師の家に泊めてもらって七日目になる。さすがになにも食べないと命が危ないが、サトはまだ一滴の水さえ飲めていない。


 朝露から取った水で布を濡らし、せめてもの対処としてくちびるを湿らせる。そのぬるい水の感触を、悪夢のなか、かすかに感じた。隙あらば魂を喰らおうとする、意思のある悪夢と、現実とを繋ぐ細い細い糸とでも言うべきか。


 雨がなく食料は尽き、飢えて動けずに、濁り腐った水に腕を伸ばし、指を濡らし、それを今にも死にそうな幼な子のくちびるに滑らせる。乾いて波打った子のくちびるは、指が端から端へ行かぬ間にその水をすべて吸い取ってしまう。


 なにがあっても、この子には生きていてほしい。自分よりも一秒でも長く生きてほしい。どんな辱めに遭おうとも、どんなに苦しくとも、母親としての魂の刻印が、諦めることを許さなかった。


 自分はどれだけの苦難を背負ってもいい。だから、この命は助けてほしい。そう、母親は神仏に祈った。


 ーーこの国は、さまざまな民族が混合してできた国であったらしい。その証拠に、大陸から渡来した一族の祖先神や山河への原始的な信仰が、一つの神話に入り乱れた。多神教の神は、思念であり霊魂である。この世に及ぼすのは、いい作用ばかりとは限らない。とある怨念が生み出した邪神が、死にかけの母親の願いを聞いた。


 黒いもやが、地面からぐるぐると渦を巻き、浮かんだり沈んだり膨張と縮小を繰り返して、探るように人の背丈に近づいていく。


 まるで、人智を超えた存在がヒトの姿にとでもいうような傲慢。しかし、それさえも、苦難の只中にいる者には目の前に差し伸べられた菩薩の腕に見えるのだ。


「お前の願いを叶えてやろう」


 母親の目が潤み、その手を合わせて靄を拝もうとする。靄は、意外だと言うようにその輪郭を揺らし、そして仰々しく腕らしきものを広げてみせた。


「そのかわり、お前の命をもらい受ける」


「わたくしなどの命で足りましょうか、このご恩」


 次の瞬間、骨と皮で倒れていた母親には健康な肉がつき、絹の着物を纏い、邪神の背後に立って控えていた。


「あ、あの……助けていただきたかったのは我が子で」


「口答えいたすな。私はお前をもらい受ける。その子の病は直に癒されるゆえ安心せよ」


「……それは、なんとお礼を申し上げれば」


 倒れた子供のくちびるに仄かな色が灯ったのを見て、母親は喜んだ。邪神の前に回り込み、跪こうとする。邪神は振り返り、母親の首を締め上げた。


「私の前に出るな。今後一切、私の顔を見ることを許さない。禁を破れば……わかるな」


 母親はカクカクと頷く。邪な神は、自身がほくそ笑む顔を見られたくなかった。


 今のうちはまだ、子供をと思わせておいたほうが面白い。永遠の命が一人の人間にもたらす苦しみを、猿芝居の見せ物のように眺め続けるつもりだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る