第19話 痛み

 鹿を仕留め損ね大怪我を負った人物は一人、サトや鳴海のいる場所からほんの眼と鼻の先の森の中にいた。


 一歩はおろか、人差し指一つ曲げるのにも激痛を伴い、もう四日は水さえ口にできていない。ーーとうに傷は治っているにもかかわらずである。


 空からのぬくもりを受け尽くそうと張り巡らされた木々の枝葉は、彼の冷えていく身体から無情に熱を奪う。涼しげな木陰は命の傍観者でしかなく、暑さに死にそうな者にはひとときの休息を与えるが、死にゆく者の体を温め直してはくれない。


 肌にはカラカラに乾いた瘡蓋かさぶたが貼り付いたままで、そのなかには皮膚と完全に分離したものもある。


 体は冷え、カタカタと震えながら、その動きに呼び覚まされた痛みと疼きに耐える。一方、あらゆる内臓は熊の鉤爪で常時引っ掻き回されたように熱を持ち、彼の体力を奪っていく。


 旅の連れはもうこの世にはいない。欲を出して、鹿をもう一匹狩ろうと言い出したのは連れのほうだった。


 血抜きも内臓の処理も知らないまままだ温かさの残る生肉を貪り食った彼らは、自分たちの体に獣の血がべったりとついていることは知っていたが、それに伴い周囲の鹿が警戒状態にあり、神経が高ぶっているだろうことまで考えが及ばなかったのだ。


 囮となった隼人に突進からの頭突きで腹わたが漏れ出たあげく突き飛ばされ、後ろから飛びつき首をかっ切ろうとした連れの男は後ろ脚を喉元に食らって息ができずに死んだ。


 男が倒れた方角からは足で地面を叩いたり、ヒューヒューとなにか息になり損ねたものが漏れる音がしたが、それも時間とともに弱っていく。頭を岩にぶつけたことによる脳震盪で動けずにいた隼人が男のもとにたどり着けたのは、すでに息絶えたあとだった。


 初めは頭を強く打ったせいで感覚がなかったせいだと思っていた。動き出せるようになってからのほうが胴体をえぐるような痛みが強くなったが、死体のもとに行ったときにはそれが火で炙られるような痛みに変わっていた。


 死んだのか。そう呟いて、すぐに膝から崩れ落ちた。腹から噴き出ていた血は滲む程度になっていたが、痛みは瞬きするごとに強くなり、死者を弔う暇さえ彼に与えなかった。


 この痛みは、いつもの痛みとは違う。傷が治るときの痛みではなく、の痛みなのではないか。試しに、内臓がきちんとはたらいているのか確かめてみよう、と隼人は思った。


 腕を自分の足に沿って胸に近づける。なにかに触れていなければならないのは、支えがないと腕を保持できないから。喉の奥が鳴るような苦悶の音を立てながら、その苦しみの表明さえ新たな痛みをもたらす。


 手のひらが心臓の上に置かれた。手の、痺れにも似た痛みが引いてくると、ドクドクと手に触れるものがあった。戦いの前に速くなるその鼓動は、そのときもひどく拙速で、生き急いでいた。


 傷が治ること、死から舞い戻ること、それ自体が苦役というのなら、死こそが救済になる。しかし、彼は不死身であり、その救いにあずかることはできない。ならばーー


 小さく死に続けるしかない。死の淵に自らを置いて、絶えず肉体を傷つけるしかない。そのためには、絶えずいくさに身を投じなければいけないと悟った。

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