第16話 鹿を狩る 其のニ

「サト、君には東国へ行ってもらう」


 とある朝、朝食の時間には早いと訝しみながら牢番の呼ぶ声に体を起こしたサトは、開口一番突拍子もないことを言い出した男の顔をしばし真顔で見つめることになってしまった。


「不満だろうが、耐えてくれ。悪くはしない」


「いや、そうやなくて。もしかして、牢屋に入れる投獄と東の東国をかけてるん? ごめんな、洒落がわからんオナゴで」


 真顔のまま返されて、男は苦笑する。男とて、その言葉が、逆らえない相手に対する強烈な皮肉だとわからないほど若くも純粋でもない。


 それに、自分がやろうとしていることがサトにそれなりの不自由を強いることも十分に理解していた。嫌味をかわし、男は話の続きを語る。


「罪人の輸送に紛れて、サトを東国へと送り届ける。命懸けの旅となるが、どうか生き延びてほしい」


「ーーそう」


 サトは底なしの目で男を見据える。死んだ魚のような、正気のない目はならず者との戦闘を何度もこなした男の背に冷や汗を流させた。


「ウチを好きなようにしたらよろし。ーーあんたらが討ち滅ぼしてる、諸国を荒らすならず者のほうが、ウチの自主性を尊重してくれた」


 ならず者のほうが自由である。その言葉こそ、男にはこたえた。真に平らな世を目指すために、こんなふうに力を笠に着て人を従わせることが今後、何度あるだろう。


 男の雇い主も、男が仕えて間もないころは、人を従わせることに苦しんでいたようだった。そのころと今が違うのだと思い知らされたのは、若い武者に酒を注がせ、その失敗を公家たちとともに笑いものにしたときだった。


 それは四年前のことだった。その後、男のあるじは男を遠ざけ、権力に固執するようになった。人は力を持つと変わってしまう。


 ならば、自分は変わってしまわないと言えるのか。今まさに、変わり果てていないと思えるのか。


 おぞましい考えに男は頭を振った。という、呪われた首のない人形に、次のかしらと見定められないうちに、ことを成さねばならない。そして、新しい傀儡かいらいとならぬうちに、自分は死ぬ。男はそう決めていた。妻は離縁し、子もない。


「どうしはったん? もうすぐ日が昇るで」


 男は我に返った。思い悩んでいるうちに、約束の時刻が迫ってきていたらしかった。


「できるだけ早く、この服に着替えてくれ。いま着ている服は焼き払う。ーー君が着替えている間、私は戸の向こうにいる。逃げるならこれが最後の機会だ」


 サトを連れ去りたいのか、逃げてほしいのか。矛盾しているともとれる男の言葉にサトは困惑し、瞬きを二、三繰り返す。しかし、男の葛藤を感じ取ったのか、投げられた服を手に取り、旅を共にする意思を示した。


「ありがとう。礼を言おう」


「東国に行ったら、さぞかし美味しいご飯を食べさせてくれるんやろな」


 一瞬、男は虚を突かれた顔をして、「そうだな、約束しよう」と答えた。

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