第17話 鹿を狩る 其の三
後ろ足を怪我した鹿が山中の清流を渡ろうとしていた。
血を流したままの移動は危険が伴う。速く駆けることが不可能となったならば、できるだけ回り道をし、川を多く渡り、自分の臭いをできるだけ薄くして自分の巣に戻ること。
早く休みたいという心に負けてしまい、その手間を惜しむならば、休む前に食われてしまう。傷を癒す術を持たない野の獣は、体力が尽きたならばすぐに死に直結する。
その鹿を仕留め損ねたのは、狩りに慣れていない者だと思われた。獣の脚の付け根から尻にかけて刃物を振り上げた傷は、弓矢などの飛び道具によってつけられたものではない。馬にしろ鹿にしろ、彼らの背後に考えなしに近づこうものなら蹴り飛ばされて死ぬ。鹿に傷を負わせた人間は、一方致命傷を負ったとも考えられる。
その証拠に、鹿の脚には鹿のものではない血もついていた。
狩りの失敗に大怪我を負った人間に、命を奪おうとする敵に反撃し人間の追従を許さなかった獣。自然の理によるならば、先に死ぬのは人間のほうである。ーーただ、人間は自然の外に、命喰らう無情な神の目の及ばない隠れ家を有していた。
山々の合間に人が集まり、木を伐り草を抜き、土を耕し、人の口に合う作物を一面に生やさせる。その人の群れから人の群れへ、商いのために人は山を越える。その旅はしばしば命懸けで、山を根城にする狩人や略奪者も現れた。
そんな山中に、明らかに商いではなさそうな一団があった。あまりにも質素な出で立ちながら、その中心にあるものをひた隠しにしたい思いの表れか、矢をつがえながらあちこちに目を配る武者がいた。
罪人の輸送というテイを取った、秘密裏の要人の移送。目立ってもいけないが、略奪者や野の獣、政敵に軽々しく敗れるようでも困る。罪人の脱走を防ぐためなら内側へ向けられるはずの敵意が外に向いている奇妙な
罪人が後ろ縄にされ入れられている籠とそれを取り囲む武者たちの中に、背の小さな男児が一人、先頭を歩く。邪を祓う露払いの役目を果たす男児は、やがて血に濡れた獣道を視認し、一行の行列を止めた。
「人の血であるならば、この先でいくさが起こっているかもしれませぬ。迂回いたしますか?」
訛りのない
「ーー人の血であるかどうか、わからぬか。できるだけ迂回はしたくない」
「明確にわかるとは申し上げられませんが、一通りお調べいたします」
シダの葉についた血は、まだ乾いておらず粘りがあった。人差し指と親指で触れば糸が引いた。その瞬間、男児の頭蓋に奇妙な衝撃が走った。
追われて走る獣の視線と、追う者の視線が入り混じる誰かの記憶が、男児の体に流れ込む。男児は思わずうずくまり、膝を抱いて動かないことでその衝撃を耐えた。
追う者も追われる獣も、相当な傷を負っていた。その痛みに共鳴して男児は苦しんだが、その発作も時間とともに収まった。道を急いでいるはずの一行は、男児の発作が収まるのを我慢強く待った。
「これは……?」
男児は、追われる獣が一瞬だけ捉えた人間の姿を思い出す。顔の傷と腫れ物に、見覚えがあるような気がしたのだ。
次の瞬間、先ほどまで微塵も感じなかった
骨と皮の死体がずらずらと連なる荒れた町に、かろうじて息のある女と、女に取り縋る男の子。
女は泣いていた。自分が死ねば子の命もない。しかし、体を起こすことさえ痛みを伴う。息が苦しく下痢だけが地面を伝う。せめて子が生き延びてほしいと、恐らくは強く、強くーー己の命さえ投げ出してもいいと願ったはずだ。
その女の祈りが町に呼び出したのは、異形の怪物だった。妖とも、邪神とも呼ばれるだろう。
脳天を殴られたような痛みとともに、男児は我に返る。せっかくの変装もむなしく、髪が背に乱れていた。
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