第4話

4.Aスピード本社


 橘弘幸たちばなひろゆきは、国内シューズのトップメーカー「Aスピード」のランニングシューズ部門の技術開発部門の部長である。48歳、大学時代は陸上部に所属し、箱根をめざしたが、残念ながら補欠止まりで、ランナーとして走ることはかなわなかった。しかし、陸上が好きで、何らかの形で陸上競技に関わる仕事をしたいと思いAスピード社に入社した。ここで本人も入社当時は気づいていなかったが、ランニングシューズを開発する才能が発揮される。それは大学時代に、「もっとこういうシューズがあったらいいな」といろいろ思ってきたことがきっかけだった。アマチュアの選手は世に出回っている既製品から、少しでも自分にあったものを選択するしかない。プロ野球の選手などは、ごく一部の選手に限られるが、オーダーメイドのバットやグラブを作ったりすることはある。しかし、多くの選手はそんな優遇措置にはあやかれない。むろん橘もそうであったが、選手として引退した後ではあったが、Aスピード社に入社したことで、自分が思い描いたシューズを提供する機会が与えられたのである。しかもその考えは、多くの同じ競技者の考えと一致していた。橘はランニングシューズの開発部門に配置されてから、これまで数々のヒット商品を手掛けてきた。Aスピードはランニングシューズ以外にも、通常のウオーキングシューズ、野球、テニス、バスケットボール、バレーボールなどでもシューズを生産しており、それぞれに開発部門があり、橘のランニングシューズ部門もその一つである。ランニングシューズは、速く走ることも重要だが、選手の足に負担がかからないこと、ある程度以上の耐久性があることなども求められる。何にしても売り物にならなければならない。シューズを履く人は、トップランナーだけではない、一般の市民ランナーにも支持される必要がある。1,2回走って壊れるようでは使い物にならないのだ。また、ランニングシューズは、ジムでのトレーニングに使われることもあるが、多くはアスファルトやコンクリートなどの屋外のロードを走ることが想定されるので、その前提で作られる。屋内のフローリングに比べて、アスファルトは靴底の消耗が激しい。その条件の中で一般のランナーでも500㎞くらいは耐久性がないと困るのである。橘たちの、これまでのコンセプトは徹底した軽さと、地面からの衝撃吸収の両立であった。これまで数々の素材を吟味し、試行を重ね、改良していった結果、Aスピードのシューズは、トップランナーから市民ランナーまで広く支持され、国内のシェアではナンバーワン、海外にも進出し、折からのマラソンブームにも乗って販路を拡大していた。橘の会社での評価は高まり、Aスピードの売り上げも右肩上がりで伸びていった。何もかも順風満帆のようにみえた。1年前までは・・・


 2年ほど前に、マラソン界に衝撃が走る。フルマラソンの世界記録が1分以上も更新されたのだ。そのケニア人ランナーが履いていたそのシューズが、アメリカの大手スポーツメーカー「ニューテクノロジー」社のランニングシューズであった。ニューテクノロジー社は、これまでマラソン用のシューズにはあまり力を入れていなかった。しかし、近年のマラソンブームが世界的になり、あちこちでマラソン大会が行われていることを知ると、「これは金になる」とふんで、莫大な開発費を注ぎ込んでシューズの開発を行った。また、ニューテクノロジーは世界各地から有望な選手と専属プロ契約を結び、生活の保障をし、トレーニング環境を整えた。そしてついに「カーボンスプリング」と言われる。炭素繊維でできた板をシューズのソール(靴の底の部分)に埋め込むことで、靴をばねのように使って走る画期的シューズを完成させた。それはまさにマラソン界に革命的変化をもたらしたのである。ただし、カーボンスプリングが入ったシューズで走るにはちょっとしたコツがあり、フォームの若干の修正も必要である。ニューテクノロジー社は、それを真っ先に専属契約のプロ選手にさせた。これが当たり、海外のマラソンレースで次々と優勝をさらう。情報は光の速さで世界を駆け巡る。この現実は、あっという間に日本にも広まり、日本のマラソン大会においてもトップランナーの実に9割がニューテクノロジー社のシューズを履くようになった。お正月の箱根駅伝では、10区間中5区間で区間新記録が更新されるという異例の事態がおこり、その原因の多くはニューテクノロジー社のシューズではないかといわれた。トップランナーのシューズの乗り換えは、あっという間に市民ランナーにも波及した。市民ランナーが皆、ニューテクノロジー社の最高級モデルを履くわけではないが、1,2段ほど下位のモデルでも人気が高まり、国内のシェアは瞬く間に逆転した。このアメリカからの、まさに「黒船」のような出来事に、Aスピード社は江戸時代末期の幕府のように、今のところなすすべがない状態であった。


 橘は、社長も参加するAスピード社の技術開発会議のなかで、自分に非難が集中することは確実であろうと思って沈鬱な気分であった。Aスピードの他の部門、ウオーキングシューズや野球、テニスといったところは大幅な業績向上はないものの、堅調な業績を上げていた。そちらの部門では世界的にも大きな波風はなかったのである。定例の業績報告の後、すかさずAスピード社長の豊田光弘とよだみつひろが言う。

「ランニングシューズの件だが、皆も知っての通りニューテクノロジーにシェアを抜かれて、今のままでは差が開くばかりだな。橘君、開発部はどうなっているんだ」

「はい、もちろん開発部全員でニューテクノロジーに対抗すべく取り組んでいます。しかしあれ以上のものを作るのは容易ではありません」

橘は正直に話した。社長もそう簡単に画期的な新商品ができるものではないことは重々承知していると思っているだろう。しかし、それでも豊田光弘はこう告げた。

「確かにニューテクノロジーのシューズは素晴らしい。これまでにない画期的なものであることは、莫大な開発費をかけているとはいえ認めよう。しかし、我々Aスピードの原点はランニングシューズだ。ここでおめおめ負け続けるわけにはいかない。日本のメーカーが、価格競争で海外製品に負けるのはまあいいだろう。ジャパンブランドの質を落とすわけにはいかんからな。しかし、日本が技術競争、創意工夫で負けてどうする。ここはプライドをかけて、絶対に負けるわけにはいかん。いいな、なんとしてもあいつらよりも優れたものを造りだせ。ニューテクノロジーに勝つには、マラソンのトップレベルで、あいつらより性能がいいものでなければならない。それが必須条件だ!」

豊田社長の激が飛んだ。橘が、そしてAスピードのランニングシューズ部門が生き残るには、もとより前へ進むしかない。初めから開発競争に退路はないのである。新シューズの開発は社長によって橘に課せられた、待ったなしの至上命令となった。

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