青栖池の悪夢 2

 青栖池の入口に辿り着いたひばりは、腕時計で時刻を確認する。午後5時50分。日の入りまではもう少し時間がありそうだ。

 ぜえぜえとあえぎ、胸元を汗が伝う。普段運動をしない上、湿度の高い中を全速力で駆け抜けたものだから、体に酸素が行き渡らず息も絶え絶えである。


「ん、ん……」

 カガミが心配そうに両手で扇いでくれているが、全く風は起こらない。ひばりはカガミの頭を撫でてやると、胸を抑えながら大きく深呼吸した。

「ぜぇ、ありがとう、カガミ。空飛ぶ……はぁ、箒が欲しい……。魔女なんだから、ぜぇ、箒に乗って移動したい……」


 現実はそう甘くはない。長い歴史を持つ魔術研究史をもってしても、重力に抵抗する術は未だ発見されていなかった。

 ――やっぱり魔女ができることって結構少ない。


 呼吸を整えながら空を仰ぐと、飛行機が空の高い位置を飛んでいるのが見えた。

 ――あんなに重たい機体を空に浮かべるのだから、科学ってすごい。


 ひばりは次の研究のテーマを”空中浮遊”に決めた。映画のように箒に乗って、黒い外套に身を包み、世界を放浪しながら魔草を集めるのも悪くない。


「ひばり様、この先から気持ちの悪い魔力が流れてきます。何でしょうか……」

 普段、罵られようが叩かれようが何でもない顔をしているリヒトが、表情を曇らせながら辺りを警戒している。

 ひばりも違和感を感じていた。魔草が生えているだけなら、こんなにおどろおどろしい魔力を感じることはない。体に油を垂らされたような粘り気のある気配に、その不快な感触のせいで無臭のはずの魔力に生臭さを感じる程だ。

 観光スポットとしてはかなりマイナーな青栖池は、町の管理の手は行き届かず、鬱蒼とした雑木林に囲まれている。獣道のような粗末な林道だけが、その先に池があることをそれとなく示していた。


「行こうか」

 ひばりは意を決して、木立の奥にある目的地を目指して歩みを始めた。カガミが先陣を切り様子を伺いながら、一歩一歩慎重に進む。どのような魔草が待ち構えているのかわからない状況では、ひばりも慎重にならざるを得ず、ポケットにしまっていたバンダナを取り出し、鼻から口元を覆い後頭部で縛った。魔草が神経毒や精神に作用する種類のものだった時のために、少しでも被害を減らすためだ。

 背の高い木々の合間を2分ほど歩き、ようやく開けた場所に出ると、ひばりは息を飲む光景を目の当たりにした。


 開けた先に見えた青栖池は、名前の通り。何かの光を反射しているのではなく、池そのものが光を放っているのである。


 魔力を漂わせながら光る様は、まるで妖精の聖域のように清廉で、普段の様子を知っている者が見たら、これが青栖池だとはとても信じられないだろう。その池が、神々しさを感じる程に眩く輝いている。

 ひばりは走り出し、池を覗き込む。どこまでも透き通り、水底が見えない。まるで底なしのように、深く深く続いている。


「どういうこと? 青栖池がどうしてこんな――魔草はどこ?」

 これほど魔力が充満しているというのに、肝心の魔草がどこにも見当たらない。

「カガミ、魔草は――カガミ?」

 振り返ると、そこには誰もいなかった。カガミだけではなく、後方を警戒しながら歩いていたリヒトの姿も見えない。

「リヒト?」

 辺りを見回しても、二人の姿はない。リヒトはいつも飄々ひょうひょうとしているが、こんな状況で冗談でかくれんぼをするような性根は持っていない。恐らく、今はひばりの血に戻っているのだろう。

しかし、理由もなくひばりを一人にするような危険な真似をするだろうか。主となる者の身を住処とし、主の魔力を栄養としてこの世に存在を繋ぎ止めている魔道具にとって、「主の死」が「己の死」であると知っている。主の命を守る事こそ、自身を守ることに直結するのだ。

 今のこの状況は、彼らの身に何かがあったということだ。顕現できない理由。考えられることはいくつかある。魔草の特殊な力か、何者かの魔術によるものか、それとも――


 ひばりが逡巡していたその時、池の中から猛スピードで何かが上がってくるのが見えた。水しぶきを上げながら、一度池を取り囲む木々よりも高く伸びた後、今度はひばり目掛けて一直線に向かっていく。ひばりはそれに見覚えがあった。

「イスリルもどき!?」

 それは以前、フラン・フルールで大暴れしたイスリルによく似た魔草の蔦だった。他者から魔力を奪うことで己の体を成長させ、どんどんと肥大していく厄介な魔草だ。

 ――厄介だ。魔力を吸収されるとかなり分が悪い……!

あの時はリヒトの他に純と森岡もいたからなんとかなんとかなったが、今回はひとりっきりだ。間一髪で横に転がり避け、急いで立ち上がると、林に向かって全速力で走り出した。イスリルもどきはひばりを捉えようと蔓をぐにぐにと伸ばし追いかける。


 なんとか林に飛び込み、少しでもイスリルもどきから距離を離そうとするも、枯れ葉やふかふかの腐葉土がひばりの足を遅くさせる。一歩一歩が重くなり、次第にスピードが落ち、ついに足首を絡め取られてしまった。蔓が触れた箇所がじわじわ熱を持ち、魔力が吸い出されるのを感じる。


「離しなさい!」

 足元の蔓を払おうとするが、かなり強く巻き付いているため微塵も剥がれる気配がない。それなら、と、ポケットにしまっていた試験管を取り出し、中の液体をイスリルもどきにふりかけた。試験管の中には魔草から魔力を引き抜くひばり手製の薬品が入っている。ところが、一瞬緩みはするものの、また新たに蔓が伸びてきてしまい、焼け石に水状態だった。何かあった時のためにマッチを持ってきてはいるが、イスリルもどきは可燃性が強く火が一気に回ってしまうため、木々に囲まれた場所では危険過ぎてこの手は使えない。

以前フラン・フルールでしたように、突風を当て続け乾燥させて処理するしかない。しかし、今あの扇を持ってきているわけもない。あれはママの依頼で調査のために一時的に預かっただけのものだ。既に手元にはない。そもそもあったところで持ってきてくれる人も――

「あ、日和君! 日和君に連絡を……」

 ポケットに手を伸ばそうとするも、魔力を吸われ続けているせいで腕に力が入らない。ずるずると林の中を引きずられ、木立の根本に体を何度も打ち付ける。蔓は全身に行き渡り、魔力も三分の一を下回った。

 なんとか地面に食らいつくが、イスリルもどきが引く力が驚くほど強く、右手の中指の爪が半分割れて剥がれてしまった。

 ひばりはいよいよ力尽き、水の中に引きずり込まれる瞬間。


 ――クスクスクス


 聞き覚えのある女の声が耳に入った。

 しかし、その姿を捉えられないまま、ひばりは池に沈んでいった。

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