第五話 ずっとずっと嫌いだった
シロたちは暗い店内に足を踏み入れた。卓の上に灯された
「
「香の匂いがきつくないかい? この建物」
「そうかしら」
「それに、妖魔の気配もする」
辺りに薄く漂う気配を読もうとして、シロは顔をしかめた。香りが強すぎて、少しだって集中できない。イチルは口元に手を当て、小さく頷いた。
「用心だけはしておきましょう。ひとまずは手分けして探すということでどうかしら。あなたは一階、私は二階」
「そうだね。あまり長居したくない場所でもあるし」
「決まりね」
早速歩き出したイチルは、何歩か進んでから再び戻ってきた。
「いいこと、黄龍。たとえ
「分かってる。約束するよ」
意志の強い眼差しを見つめ返して、シロはゆっくりと頷いた。
*****
木造の階段を踏んで上がり、一階同様に薄暗い店内をイチルは進む。掛け金を促す元締めの声、
こもった空気は汗と酒の臭いで満ちていた。格子窓から差し込む光には埃が舞っていて、時おり、無気力な眼差しをした男が転がっている。いい気味だった。
「ふふ。自分より惨めな人間がいるっていうのは、とっても気分がいいことだよね」
場違いなほど軽やかな少女の声に、イチルは立ち止まった。垂れ幕で仕切られた個室の奥だ。一人きりの卓に頬杖をついた姫子が、黒髪を揺らして首を傾けている。
「あれあれ、きしちゃん。全然驚いてない」
「ふん、妖魔といえばあなたでしょう。それにここは随分とお似合いだわ」
「にゃっはは、きしちゃんがそれを言うの? 超ウケるんですけど」
「黙りなさい」
イチルが
「きしちゃんってば、ほんとうに分からず屋なんだから。ま、いいや。今日の
「賭けの詳細は」
「黄龍が匣庭の主の真の願いを見つけられるかどうか」姫子は微笑み、立ち上がった。「きしちゃんは当然、黄龍を信じるでしょ。もちろん、それでいいよん。喜んで譲ってあげる。じゃあ早速、結果を見に行こうか」
*****
香の白煙に包まれた店内はひどい有様で、ひととおり見終わる頃には、シロの気分はひどく沈んだ。
あちこちで生気のない目をした男たちが倒れている。賭けを続けている客も妙で、覇気のない淀んだ目をして金を出し続けている。負けが続き、いよいよ金が払えないとなった時にだけ彼らは悲しげに呟いた。こんなはずではなかった。
その眼差しは
ふと思いついて、シロは立ち止まった。強い願いの声を辿っていけば、匣庭の主にたどり着けるかもしれない。
香の匂いが薄い窓際に身を寄せ、シロは深く息を吐いて耳を澄ませた。ここは蓮安の匣庭の影響が弱い。意識を傾ければ、さしたる苦労もなく願いの声が届く。
金が欲しい。惨めに人生を終えたくない。見返してやりたい。引き
諌めるように痛む龍鱗を無視して、シロはゆっくりと歩きはじめる。願いの声は、現れては消える。金、金、金だ。奪われた。奪い返さなければ。このままで終わるなんて許されない。利用されて、
「こんな、人生、なんて」
とぎれとぎれの声が鼓膜を打ち、シロは立ち止まった。階段下の物置だ。若い男が座り込んでいる。賭けに負けた客、ではない。それが証拠に、周囲には埃のかぶった賭札と銭貨が山と積まれている。
この男だ。確信を持って、シロは膝をついた。
「大丈夫ですか」
体を揺すれば、男がのろのろと顔を上げる。なにもかも疲れ切ってしまった顔が悲しい。痛む心に急かされるまま、シロは口を開く。イチルのようにと念じて言葉を紡ごうとする。
龍鱗に凍てついた痛みが走った。冷めた声が聞こえた気がした。願いを。
「……あなたの願いを、叶えてあげよう」
シロは凍りついた。奇妙なほどに乾いた声は他ならぬ自分のそれだ。けれど、違う。自分はこういう言い方をしたかったんじゃない。
若い男の顔に安堵が滲んだ。彼が答えるよりも早く、願いの声がシロに絡みつく。龍鱗がざわめき、声なき願いを叶えようとした。それが恐ろしいとシロは思った。そこで男の胸元を赤紫の結晶が貫く。
願いの声がぶつと途切れた。座り込んだシロの眼前で、揺らめいた赤紫の結晶が
「どうして」
雨のようにぽつりと、階段の踊り場から声が降る。シロが顔を上げれば、赤髪の少女が顔を青くしている。
「どうして、そういう聞き方をするんですの。そんなことをしないとわたくしに話してくださったばかりなのに」
「違う、イチル。これは……」
「言い訳、なんて」イチルは目を伏せた。「あなたも結局、わたくしの話を真面目には聞いてくれないのね」
シロは反論できなかった。当たり前のことだ。他ならぬ自分がイチルの言葉を裏切ったのだ。違う。自分はイチルの言葉を本当に守りたいと思っている。それは事実だ。じゃあどうして。
ぴりと鱗が痛む。理由など簡単なことだ。お前が龍で、誓約は違えるべきではない。
「きしちゃんったら、ほんとに可哀想!」
イチルの隣で赤紫が揺らめき、姫子が姿を現した。動かぬイチルの肩を抱き、姫子は軽蔑と笑いをこらえきれない面持ちでシロを見下ろす。
「あんなに一生懸命信じてたのにね。やっぱり、黄龍も裏切るんだ。ねぇ、これだから信用できないよねぇ。お綺麗なものほど泥を隠すのが上手なんだから、やんなっちゃう」
胸騒ぎがした。姫子がイチルにつきまとうのはいつものことだが、時機があまりにも良すぎる。
慎重に態勢を整えながら、シロは低く呻いた。
「……イチルから離れろ、妖魔」
「あっはは! なーに? 今さら保護者ヅラするわけ? びっくりしちゃうほど偽善だなー」
「偽善なわけないだろう!」シロは吐き捨て、蒼白な顔をしたイチルを見やった。「妖魔から離れるんだ、イチル! 一旦、蓮安先生の家に帰って」
「帰るべき場所など、ありませんわ」
冷え切った声で、イチルが言った。は、とシロが息を吐く。その無様さを笑うかのように、イチルが頬を歪める。
「あなた、言っていたわね。
シロの唇は震えるばかりで言葉にならなかった。今ほど否定したいと思ったことはなかった。あぁけれど、イチルは嘘をつくような人間ではないのだ。
姫子の笑い声が響く。辺りに赤紫の燐光が次々に灯り始めた。シロに対する敵意は、姫子のものであり、なによりイチル自身のものだった。
そしてイチルは、なにかをこらえるかのように手すりを握って今度こそ綺麗に笑う。
「黄龍。わたくしは死にたくないの。わたくしを犠牲にして、あなただけ元に戻るなんて許せない。でも、誰も彼もがあなたのためにわたくしを犠牲にするのでしょう。だからわたくしは、あなたのことが嫌いよ。ずっとずっと嫌いだった」
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