第四話 君は彼女のようにはできないぞ

 黄龍コウリュウが病んだ。その知らせにいてもたってもいられず、イチルは書物庫を飛び出した。


「どういうことですの……! 龍が病むだなんて……!」

「詳しいことは分からないわ。ただ、玄帝げんていいわく魂がここにないと」


 隣を歩くハイネの声音は沈んでいて、イチルの腹の底がじりじりと冷えた。


 予兆はあったのだ。黄龍は願いを叶えて帰ってくるたびに寝込んでいたし、会話の最中に意識を失って倒れたこともあった。そしてとうとう、彼の扱う水が黒ずみはじめた。


 玄帝はこれをけがれと呼び、人々の願いこそがすべての原因と断じた。だが、黄龍は願いを叶えることを優先し、人と交わり続けた。意識を失った彼を、玄帝が深灰シンハイの片隅から連れ帰ったのは昨日のことだ。


 イチルはぐっと奥歯を噛んだ。黄龍のお気楽なばかりの優しさも、傲慢ごうまんな純粋さも嫌いだ。それでも彼には家と義足の恩がある。


「止まれ」


 冷え冷えとした声が響き、イチルたちは足を止めた。


 玄帝は渡り廊下の奥から姿を現した。黒髪を一つくくりにした少年の顔は表情に乏しいが、まとう空気は凍てついた寒さを思わせる。機嫌が悪い証拠だ。そしてそれは、イチルとて同じことだった。


「……なんの用ですの、玄帝」

「黄龍には近づくな」

「なぜです」

「人間は龍にとって毒だ」

「ハイネは黄龍の世話をしているでしょう」

「当然だ。これは俺の契約者なのだから。だが、お前は違うだろう。小娘」

「っ、またそうやって、わたくしをけ者にして……!」


 イチルは思わず声を荒げ、一歩踏み出す。


「玄帝、あなたがわたくしのことを嫌っているのはよく存じています。えぇえぇ、あなたの人間嫌いは伝説の中で語られるほどですもの。でも、今は間違いなく非常時でしょう? こんな時こそ、一致団結して事に当たるべきよ。仮初かりそめとはいえ、わたくしたちは家族で、」

「家族? 笑わせてくれるな」


 玄帝は軽蔑しきった笑い声を上げた。


「十数年など、我らにとっては瞬きのような時間に過ぎぬ。そんなもので家族を気取るなど、これだから人は欲深いのだ。恥を知れ」

「っ、でも……」

「でも、なんだ? 黄龍が気にかけてくれたからというのか? 分かっているだろう、小娘。黄龍の優しさは龍としての性質ゆえに他ならぬ。あれは万象に向けられる感情だ。お前の願いは塵芥ちりあくたの一つにすぎず、特別な絆も感情も一切ない」


 イチルは言葉を失った。眉をひそめたハイネがなにかを玄帝に言ったが、彼は微動だにしない。だからこそ、思い知ってしまった。


 龍と人間は、在り方が決定的に違うのだ。


 黄龍はイチルに優しかったが、どこか遠かった。玄帝は黄龍の意思を尊重して、何も言わなかった。ハイネはもとより親切な人柄だから、拾われ子のイチルに気を使っていたのだ。自分たちの関係は、黄龍を軸とした微妙な均衡の上に成立していて、それは、とうてい家族とよべるようなものではない。


 それでも自分は、信じていたかったのに。目眩がしてイチルは座り込んだ。ハイネの気遣う声は遠い。なのに、玄帝の感情をまとわぬ声だけはよく聞こえる。


匣庭はこにわに閉じ込められた黄龍の魂を救うため、これより三日後に鵬雲院は客人を迎える。小娘、お前はその席でハイネの影武者となれ。客人が良からぬ提案をしてきた時は、お前が代わりに引き受け、命を賭して我らを守るのだ」

「――ねえ、本当に可哀想ね」


 同情と憐れみをたっぷりと詰め込んだ声がイチルの体に絡みついた。


 のろのろと顔をあげた先には玄帝もハイネもいない。からっぽの渡り廊下の真ん中で、赤紫せきしの蝶をまとわせた黒髪の少女が痛ましげに微笑んでいる。


「せっかく信じてきたのに裏切られて、利用されて。とってもついてない。同情しちゃうな」

「……戯言たわごと」イチルはぐっと拳を握りしめ、わずかな痛みで己を取り戻した。「信じてなどいませんわ。わたくしはただ、課せられた使命を果たすだけです。あなたはお呼びでないのよ、妖魔ようま

「うっそだぁ。全然納得してる顔じゃないでしょ。ま、当然だよね? 他の人間の代理扱いされてさ、黄龍を匣庭から救うためだけに妙な呪をかけられたんだから」

「必要なことでしょう」

「これも嘘。ねーねー、良い子ちゃんのフリなんて、ダッサイよ? きしちゃんは聞き分けの良い子なんかじゃないでしょ?」

「妖魔ごときがわたくしを語らないで」

「語れるよ」


 黒髪の少女は、己の頬に手を当ててうっとりと微笑んだ。


「だってねぇ、ひめちゃんはきしちゃんの匣庭に住むんだから」


*****


「――イチル?」


 穏やかな男の声で名を呼ばれ、イチルは現実に引き戻された。


 深灰の東区と西区、その境目にあたる通り道は茜色に染まっている。二人きりの帰り道で、黄龍が心配するような面持ちでイチルを見つめていた。


「大丈夫かい? 顔色が良くないけど」

「……なんでもありませんわ。それより、あなたのほうこそ大丈夫ですの」


 黄龍の手には、竹を削って作った朱色の風車が握られている。消えてしまった子供の置き土産を転がし、黄龍は頼りなく眉を下げた。


「大丈夫、ではないかな。あの子は消えてしまったわけだからね」

「匣庭の核となっていた願いが成就したから、あの子供も消えたのでしょう。ならば悲しむことなんて何もないはずよ」


 黄龍がまじまじとイチルを見やった。一体なにごとかと視線だけで問えば、龍は苦笑する。


蓮安リアン先生にも同じことを言われたんだ、ちょうどさっき。でも、そうか……」黄龍は風車を再び見つめる。「イチル、君は最初からこれを狙っていたのかい?」

「まさか。匣庭の消し方なんてわたくしが知るはずないでしょう。ただ、」


 ほんの少しの間、黄龍に拾われたときのことを思い出して、イチルは息をついた。


「……ただ、声高に叫ばれた願いのすべてが、真実とは限らないわ。言葉にならないところにこそ、本物の願いが隠れていることもある。それをきちんと見つけて向き合ってあげればいいの」


 言ってしまってから、イチルは後悔した。こんなの子供じみた感傷だ。説教のふりをしているからこそ、なお悪い。ぐっと拳を握る。そこで頭を撫でられる。


 イチルはそろりと顔を上げた。黄龍は感心したように頷いている。


「本当の願いを見つける、か。君はやっぱりすごいな、イチル」

「す、ごい?」

「そうさ。僕は口に出された願いを叶えるばかりで、それ以上のことは考えてこなかった。君からすれば馬鹿げた話かもしれないけれどね……それでも、もし君みたいに考えられていたのなら、丹朱タンシュの匣庭だって……」


 翡翠色ひすいいろの目に滲んだ後悔を溶かすように、黄龍はゆっくりとまばたきをした。改めてイチルを真正面から見やる。


「イチル、これは僕からのお願いなんだけど……できれば、今後も匣庭を消すのを手伝ってほしいんだ。そこで勉強させてほしい」

「……黄龍がわたくしから学ぶことなんて、なにもないでしょう」

「そんなことはないさ。学ぶことは山とある」黄龍は照れたように微笑んだ。「深灰に来たのはまったくの偶然だけど、せめて帰るまでには少しでも成長しないとね。君にも蓮安先生にも認めてもらえるようにさ」


 イチルは戸惑った。こんなふうに黄龍から相談されたことなんて、一度もなかったのだ。


 でも、もしもこれが黄龍の本当の性格ならば? 玄帝の言葉は間違いで、黄龍が真実、イチルと同じような感情を持ってくれているとしたら。


 淡い期待が胸をよぎった。けれど、それを言い出すのも妙に気恥ずかしい。結局イチルは、なんでもない風を装って両腕を組む。


「いい心がけですわ。これで情けない黄龍が少しでもしっかりするのなら、わたくしとしても誇らしいですもの」


 そっか、と言って黄龍が再び笑う。それはやっぱり情けなかったが、イチルをたしかに安心させた。


 *****


 深灰の匣庭は大小あわせて二十六存在し、探し出すには人々のうわさが手がかりとなった。


 いわく、隣人が壺から金塊を取り出した。曰く、深灰を走る路面電車トラムには存在しないはずの駅がある。曰く、夕暮れ時に決して振り返ってはならない道がある。


 玉石混交の噂は墨水堂ぼくすいどうにもたらされ、ヤシロが仕分けて十無ツナシが地図に落とし込む。これを訪ねて調べるのがイチルとシロの仕事だ。匣庭の主を見つけてからも一仕事で、彼らの話に耳を傾けていれば数日なんて瞬く間にすぎる。


「それでもやっぱり、僕はイチルのやり方が好ましいと思うんです」


 匣庭の主であった子供が消えて、二十日あまり。蓮安邸の縁側でシロは蓮安にそう言った。


 中庭は夏の夜で満たされている。さかんに響く虫の声と、暑さをはらんだ風に桜の古木が葉を鳴らす音。賑やかな静寂に、蓮安が酒盃しゅはいで床を鳴らす音が混じった。


「お人好しだな、君は相変わらず」

「そういう蓮安先生は頑固ですよね、相変わらず。少しも手伝ってくれないじゃないですか」

「当然だ。時間がかかりすぎるだろう、説得なんて……って、あ!」


 シロは蓮安の指先から酒器をさらった。随分と軽くなった器を振って呆れた視線を向ければ、蓮安は不貞腐ふてくされたようにそっぽを向く。


「いいかね、シロくん。イチルちゃんのやり方をどう評価するかは君の勝手だが、君は彼女のようにはできないぞ」

「ご忠告どうも。でも蓮安先生、僕だって少しずつ学んでいるんですよ。変われないわけじゃない」

「気持ちの問題じゃないんだ、これは」蓮安は呻くように言って、縁側へ足を投げ出した。「はぁ、君と話すといつもこれだ。議論は平行線ばかり。もう少し身のある会話をしてみたいものだな」

「蓮安先生が折れることを学べば良いんじゃないんですか」

阿呆あほう。折れるのは君のほうだろ」


 返事をする気も失せ、シロは蓮安の酒盃を取り上げた。残っていた酒を注いで口をつける。辛口だが酒精は弱い。


 大きく伸びをした蓮安は、懐から宣伝紙チラシを取り出してなにかを折り始めた。


「それで、あれからイチルちゃん自身に変わったところはないのか?」

「楽しそうに匣庭探しを手伝ってくれてますよ。こういう仕事が好きな性格ですから。ただ、」


 シロは酒盃を見つめた。手元の燈籠とうろうの光が届かぬ暗い湖面が、ゆらりと揺れる。


「たまに思いつめたような顔をしているので、その点は気になります」

「理由は?」

「……それは……けてないですけど……」

「かっ、まーた妙なところで怖気づいたのか、君は」

「お言葉はごもっともですがね、蓮安先生。誰も彼もが、あなたみたいに無神経に振る舞えるわけじゃ、ぶっ」


 鼻先に紙の塊がぶつかり、シロは顔をしかめて言葉を止めた。酒盃にぽとりと落ちたそれをつまみ上げれば、頬杖をついた蓮安が得意げに笑う。


「どうだ、いい出来だろう」

「なんですかこれ」

ちょう

「下手く、って」


 容赦なくふくらはぎを蹴られ、夏の夜にシロのうめき声が響いた。


 *****


 東区の外れに妙な賭博場とばくじょうがある。聞き覚えのある依頼が舞い込んだのは翌日のことだった。


「前回と同じ依頼なのかな、これは」

「どういうことですの、黄龍?」


 昼食を花凛カリン堂で済ませ、シロとイチルは賑やかな大通りを東区へ向かって進んでいる。道中で、シロは事の経緯を話した。ちょうどイチルと再会した日に受けていた依頼だ。結局、賭博場は見つけられないまま、今日に至るまで棚上げされてきた。


 二人は東区と西区の境界にたどり着いた。例の路地裏に足を踏み入れながら、シロは改めて辺りを見回す。


「特に変わったところはない道なんだよな……西区と違って、片付いているし」

「あちらが汚すぎるのよ。よくもまぁ生活できるものだわ」

「はは。まぁ、慣れればどうということもないよ? 鵬雲院が一番なのは変わらないけど」

「……そうね」


 イチルの横顔にわずかに影が落ちた。例の、どことなく浮かない顔だ。


 シロは少しばかり迷った。言い出さないということは、彼女の中で触れてほしくないものなのだろう。それをわざわざ暴くことほど酷なことはない。だが、万が一ということもある。


 やっぱり、尋ねるだけでもしてみよう。シロがようやく覚悟を決めたところで、路地を曲がったイチルが立ち止まった。彼女の視線を追いかけたシロも目を丸くする。


「賭博場……」


 路地は唐突に終わり、古風で堅牢な木造の建物が現れた。風雨にさらされた壁は色あせ、窓という窓に木組みの格子がはめられている。


 鉄火場てっかばと書かれた黒塗りの看板の近くで、毒々しいほど鮮やかな朱色の提灯ちょうちんが揺れた。流石に日が高いせいか人通りはない――そう思ったところで、シロの龍鱗りゅうりんがわずかにうずく。


「客かい? それとも冷やかしかい?」


 しゃがれ声に、シロはどきりとした。目を凝らせば、暗い窓の向こうから白髪の老婆ろうばが値踏みするように見つめている。


「客だなんて……僕たちはそういうわけじゃ、」

「いいえ、客よ。わたくしはただの従者、遊ぶのは主人のほう」


 イチルがシロの腕をとって引き寄せた。シロはぎょっとしたものの、イチルに無言で促されて仕方なく引きつった笑みを浮かべる。


 老婆はしばらくシロたちを交互に眺めていたが、やがて手元の鈴を一度鳴らした。戸口が開き、むせかえるほどの沈香じんこうの香りが漂う。

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