第六話 家族だからに決まってる

「イチル……!」


 シロを拒むように、ぐるりと揺らめいた赤紫せきしの光が眼前いっぱいに広がった。周囲の景色は彼方に消え、とぐろを巻いた妖光がせきを切ったように押し寄せる。


 シロは腕をかざした。ばちりと、弦を勢いよく弾いたような音がしたのはその時だ。シロは己の胸元を見やって息をのむ。いくつもの黒光がこぼれ、あるものは黒蝶こくちょうとなり、あるものは地面に落ちて紋を描いている。


『――万難ばんなんことごとく退けよ、蛇目紋じゃのめのもん


 柏手かしわで祝詞のりとを合図に紋が輝き、周囲の赤紫を吹き飛ばした。


 整然とした茜色の路地裏で、シロは座り込んだ。助かったのだ、自分は。けれどイチルを助けることはできなかった。


「首輪がこんなにも早く役に立つとはな。君はつくづく厄介事を引き当てる才能があるらしい」


 足音が響き、うなだれるシロの視界の端に夜色の唐服が現れる。誰と問うまでもなかった。蓮安リアンだ。


「立て。匣庭はこにわを壊しに行くぞ」

「駄目です」ひるがえったすそを、シロは掴んだ。「イチルは家族なんだ」


 蓮安の靴底が地面をこする音がやけに大きく聞こえた。手から夜がするりと抜け、視界の端につま先が現れる。


「それはまがい物だと、当のイチルちゃんが否定したんだろう」

「……分かっています」

「いいや、分かってない。なぁ君、その理由を一度でも真面目に考えたことがあったか? どうして君が、君の意思とは関係なしに願いの声を叶えようとしてしまうのか、理解しているのかね?」

「…………」

「それは君が願いを叶える龍だからだ」蓮安は容赦なく言葉を続けた。「そこに真意があろうとなかろうと、願われれば叶えざるをえないのが君という存在だ。耳を傾けて本当の意味で他者を救うなんて、最初から君には出来ないんだよ」


 シロはきつく奥歯を噛んだ。体が震えた。蓮安の言葉は真実だ。龍鱗りゅうりんがささやいたような気さえした。天から力を授かった以上、領分を違えることは許されない。

 分かっている。けれど。


「だから、なんなんですか」


 低く呻いて、シロはうとましい首裏のうろこを手のひらでぐっと掴む。


「それが、僕がイチルを助けない理由になるんですか? そんなわけないでしょう。あんなに泣きそうな顔をした彼女を放っておけるわけがない」

「憐れみで助けたところで、イチルちゃんは君を嫌うだろうさ」

「そんなもので救えるなら、安いものじゃないですか。彼女を失うより、はるかにましです」

「一時の話じゃないんだぜ、シロくん。君が思っている以上に、君は変われないんだ」

「それでも」シロは語気を強め、顔を上げた。「……それでも、変わろうとすることはできるでしょう。彼女の本当の願いを見つけたいと、努力することなら僕にだってできる。違いますか」


 蓮安は何も言わなかった。湖面に浮かぶ月のごとく静かな表情を見つめ、シロは言う。


「イチルは僕が助けます。だから蓮安先生、あなたは黙って僕に協力してください」


 *****


 賭博場とばくじょうの景色は退屈で代わり映えのしない光景ばかりを繰り返していて、彼女はそれを最上階から硬い面持ちで見下ろすのだった。


 部屋を飾る品々はどれも精巧だ。繊細な彫刻を刻んだ樺木かぼくの調度品と、金糸銀糸で惜しみなく刺繍をほどこした絨毯じゅうたん。暗闇は灯火と赤紫を宿す燈籠に照らされ、白檀びゃくだんの香りが華を添える。


「食べるもの、眠る場所、見下ろす景色。ぜーんぶ、きしちゃんの好きなものばかりだよ」


 イチルの座る椅子の周囲をゆっくりと歩いてまわりながら、姫子ヒメコは歌うように言った。


「なんといっても、ここはきしちゃんのための庭だからね。誰かに助けを求める必要だってないの。奪われる心配だってない。うんうん、帰るべき家って、まさにこんな感じだよね!」

「その言葉。いい加減に聞き飽きたわ、姫子」

「ありゃ、そうだっけ? まっ、いいじゃん。楽しいコトはさぁ、積極的に言葉に出していかないと! こーゆーのは遊びの基本だよ?」


 姫子は椅子の手すりに浅く腰掛け、銀の器から蟠桃ばんとうを掴んだ。歯を立てれば甘い果汁がこぼれ、ぼたぼたとイチルの指先に降りかかる。


 赤髪の少女の顔が伏せられた。


「わたくしは」

「楽しくないだなんて、つまんねーこと言わないでよ」


 イチルが押し黙り、姫子はにやにやと目を細める。


「何度も言ってるでしょお。ここは匣庭。きしちゃんが望んだことしか形にならないの。んふ、でもなーんにも悲観することはないんだよ? 誰かを見下しながら生活したいなんて、最っ高に悪趣味だけど、ひめちゃんは見捨てたりなんかしないからね」

「……何故なんですの」

「家族だから」


 ことさら優しく言ってやれば、イチルがはっとしたように顔を上げた。その唇に食べかけの桃を押しつけ、姫子は嘲笑ちょうしょうする。


「そんなわけねーだろ、ばーか」


 果実がぼとりと地面に落ち、少女の目が凍りつく。綺麗な外面がぼろぼろとがれ落ちていく様子は何度見たって小気味よく、姫子は果実を踏みつぶして上機嫌で歩き出した。あぁ本当に、手間をかけて生者を堕とした甲斐があった。ここは姫子が手に入れてきた中でも、一番に入るくらいの上質な匣庭になるだろう。


 階段を数歩降りたところで、姫子は足を止めた。酒と香の臭いにまみれた胸糞悪い光景が、ほんの少しざわついている。目を凝らせば見覚えのある男女の顔ぶれがあった。


 蜂蜜はちみつ色の髪の人ならざる男と、夜をまとった穢れた女だ。


 *****


 じわりと腹の底が冷えるような感覚で、胴元どうもとの男は手元のわんを取り落した。


「おやおや。具合が悪くなるのは結構だが、金はきっちり払ってくれないと困るぜ」


 白煙の向こうから、椅子にゆったりと腰掛けた夜色の女の声が響く。かたわらに従えるのは木杖もくじょうを携えた偉丈夫だ。蜂蜜色の前髪を無造作に撫でつけ、翡翠色ひすいいろの目は油断なく男を観察している。


 いかにも賭博に不慣れそうな小綺麗な男女が姿を現したのはいつのことだったか、男は覚えていない。重要なことは、とにかく自分が負け続けているということだ。


 いいや、違う。男は焦りを押さえつけて強く否定した。自分は、あえて負けてやっていたはずだ。金を巻き上げるには、客を良い気にさせてやるに限る。そうして最後には勝ちを重ねて金を全て回収するのが常だった。だからこれは計画通りだ。そのはずだ。


「君」


 冷ややかな女の声が再び鼓膜を打ち、男はなんとか椀を拾い上げた。震える指先で銭貨せんかの詰まった小袋を卓へ乱暴に積む。


「もう一度だ」

「もちろんだとも。私は賭け事を楽しみに来たんだから」女は紅を引いた唇を煙管キセルに寄せたあと、かたわらの偉丈夫に目をやった。「なぁシロくん。次はいくら賭けようか?」

「全部でいいんじゃないんですか」

「相変わらずやる気がないな。まったく、君はいい鴨になる素質があるよ」


 くつくつと笑った女は、ほっそりとした指先での札に袋をのせた。ふざけやがって、と呟きながら、男は手元の椀を鉄珠てつしゅの山に突っ込んで引き寄せる。


 番攤ファンタンの決まり事にのっとり、手元の竹べらで椀に入った珠を四つずつに分けていく。最後に残った玉の数が賭け札のそれと一致すれば女の勝ち、それ以外ならば自分の勝ちだ。


 少しずつ小さくなっていく山を慎重に見極め、男は手元に隠し持っていた鉄珠を一つ山に足した。これで鉄珠の余りは三となり、女は負ける。己に強く言い聞かせて一心不乱に竹べらで選り分けていた男は、最後に残った鉄珠に目を見開いた。


「……弐……」

「私の勝ちだな」

「おかしい!」


 男は卓を叩いて立ち上がった。鉄珠が耳障りな音を立てて崩れる中、女ははて、と首を傾ける。


「まさか客のほうに言いがかりをつけるとは。どうにもここの元締めはしつけがなってないらしい」

「全て勝つなどありえん! いかさまだ! そうだ、そうだとも!」

「かかっ、言いがかりだなぁ。君が三流なだけだろう」

「っ、だまれ!」


 怒りに任せて、鉄珠を掴んで女の顔面へ投げつける。シロと呼ばれた偉丈夫が手のひらでそれを防ぎ、ばらりと珠が卓に転がった。


 冷えきった翡翠色の目に、男は凍りついた。艶やかに笑った女は、労をねぎらうかのようにシロの手へ細い指先を絡める。


「君ごときには想像もつかないような幸運に恵まれているのさ、私は」シロの手へ頬を寄せながら、女は蛇のごとく目を細めた。「さぁ、次だ。店の金がなくなったのなら、君の小金を賭ければいい。私はどこまでも付き合ってやるぞ」


 男は悲鳴をあげて逃げ出した。たかが賭け事だ。されど、この賭博場で有り金全てを失えばどうなるか。床に転がったまま微動だにしない薄汚い男たちの仲間入りだけはごめんだ。


 どこかぼんやりとした様子の客をかき分け、舌打ちをし、あと一歩で店の裏口というところまで来たところで、男は足を引っ掛けられ床に倒れ込んだ。身をひねれば、黒色眼鏡サングラスの安っぽい中年男と、藤色の髪の美しい少女が意味ありげな笑みを浮かべて自分を見下ろしている。


 ゆったりとした足音とともに、蜂蜜色の髪の男が姿を現した。


「イチルの場所を教えて下さい」


 *****


 逃げ出した男を追いかけてシロが飛び出し、蓮安は呆れ顔でため息をついた。


「待ても出来ない犬か、アレは」

「あっはは。出来の悪い家畜を持つと苦労するねぇ!」


 今しがたまで胴元がいた場所に赤紫が渦巻き、黒髪の少女が現れる。卓を挟んで向かいあわせに座った姫子は、放り出された椀で鉄珠を無造作にすくいあげた。


 蓮安は銭貨の袋をいちの札に置く。姫子が竹べらで鉄珠を選り分けながらのんびりと言った。


「つまんねー三文芝居だったね。女主人に従僕ってかんじ? あんなので騒ぎをおこそうと思ったの?」

「いやはや、まったくな。いくら私が全人類の至宝たる名優であっても、大根役者の男が一人いれば全て台無しなんだから、この世というのは無情ってものさ」

「自意識過剰ウケる。とっとと人生から退場しちゃったほうが世のため人のためじゃん」

「それは君のほうだろう? 私なんぞに関わらず、シロくんを追いかけたほうがいいんじゃないか」

「馬っ鹿みたい。楽しく遊ぶコツは勝てる勝負を取りにいくことなんだよ――”偶然アレア”」


 周囲に灯されていた燈籠が一斉に揺らめき、赤紫の光を灯す。空気が変わり、遊戯ゲームが始まる。


 姫子が最後に残った二個の鉄珠を竹べらで弾いた。頭の中を無遠慮に撫でられる感覚に、蓮安は片眉を跳ね上げる。


 宙から一枚の紙を取り出した姫子はせせら笑った。


「はい、あんたの負け。幸運の星が離れれば、不幸まっさかさまってね」

「ふむ、なるほど。この感覚は不愉快だが」蓮安はゆっくりとまばたきして言った。「つまらんな」


 姫子の目がすがめられた。蓮安はやれやれと肩をすくめる。


「何もかもがお子様なんだよなぁ。勝負に勝って得るものが情報だけ、しかもそれをすぐに確認することもせず、見せびらかして馬鹿にする。無駄だらけで隙だらけだ」

「やだなー、この世は全て心理戦なんだよお? どんなに強い猛者もさでも心を病めば死んじゃうんだから」

「そのとおり。だが君は、お子様ゆえにちっとも使いこなせていない。もったいない話だ。だからこそ、私が有効活用してやろう」

「……どーいう意味よ」

「賭けをしよう。つまらん子供の遊びじゃない、本物の真剣勝負だよ。姮娥コウガ


 ぎらぎらと目を光らせる姫子に、蓮安は唇の端を吊り上げて頬杖をついた。


「君が勝てば、私達を好きにしていい。私が勝てば、君を私の匣庭に引き入れる。賭けの内容は、お人好しの黄龍コウリュウが匣庭の主の本当の願いを見つけることができるかどうか、だ」


 *****


 気絶した男をヤシロ十無ツナシに任せ、シロは賭博場の最上階にたどり着いた。強い香の匂いは相変わらずだが、部屋の雰囲気は様変わりする。古びているが品のある調度品と、ぽつぽつと灯された燈籠の灯り。踏み心地の良い敷物が向かう先には豪奢なしつらえの椅子が空っぽのまま置き去りにされている。


 背後で機械からくりの歯車が空気を鳴らし、シロは飛び退った。闇から現れた銀刃が床に突き立ち、一拍遅れて義足の少女が現れる。


「わたくしは帰らないと言ったはずよ、黄龍」

「そうだね、イチル」シロはぎこちなく笑った。「でも、迎えに来るな、とは言われてない。違うかな」

詭弁きべんですわ」


 地面に突き立った刀の柄を撫でながら、イチルは疲れたように言った。


「もう放っておいてくださらない? わたくしは別に、あなたに危害を加えたいわけじゃありませんの。ただ生きていたいだけ。それがたまたま匣庭だったというだけのことですわ」

「駄目だ。匣庭をつくれば蓮安先生に壊される。君を失うわけにはいかない」

「ならば見逃すよう、あの女を籠絡ろうらくすればいいじゃない」

「……それは」

「出来ない、のでしょう」イチルは吐き捨てるように笑って、刀の柄を握った。「やっぱり上っ面ばかりじゃない。黄龍、あなたが取り戻したいのはわたくしなんかじゃない。誰も彼もにいい顔ができる、空っぽで虚ろでお綺麗な世界なのよ。そこにわたくしの居場所なんてないの」


 刃を引き抜いたと同時、イチルの姿が揺らめいて消えた。頬に鋭い痛みが走り、シロは顔を歪める。


 血を床に滴らせながら数歩下がり、直感で斜め上に木杖をかざした。姿なき刃とかち合う鈍い手応えは一瞬、すぐに離れて再び別の角度から攻められる。


「こういう事もできるのよ、匣庭では!」三合、四合と打ち合いを重ねながら、姿を消したイチルの虚しい笑い声が響く。「ねぇ黄龍、なんだって叶うの! ここでは! だからもう、あなたのあわれみなんて必要ない! 匣庭で生きることが、わたくしの願いなのよ!」

「っ、」


 イチルの叫びに首裏の龍鱗がざわりと逆立つ。止まりそうになる体を無理矢理に動かして、シロは宙空に手をかざした。


夜霧よぎり睡郷すいきょう!』


 辺り一帯に翡翠の光が舞い、イチルの攻撃を遠ざける。シロは目を閉じた。人払いの術はその場しのぎだ。彼女の姿を突き止めない限り勝ちはない。


 息を吐く。龍鱗が首を伝って頬を覆う。無情の冷たさに身を浸しながら耳を澄ませる。いくつも響く願いの声が水紋のように互いに干渉しながら反響し、すぐに濁流のような音をたててシロの鼓膜を震わせた。息をするたびに頭が痛み、呑まれそうになった。願いを叶えよという冷たい囁きが主導権を握ろうとする。


 それを意思の力だけでねじ伏せ、シロは探し求めていた声を掴んだ。か細い少女の声だ。帰りたくない。帰る場所なんてない。匣庭にとどまっていたい。結局自分は、誰かにとっての無価値な人間でしかなくて、だから。


 龍がうなる。だから、願いを。


「っ、そんなわけなだろう……!」


 シロは叫びながら、願いの声が聞こえた方向に木杖を振るった。手応えがあり、姿を現したイチルの手から刀が飛ぶ。少女の足を払う。倒れ込んだところを狙って、こめかみのすぐ横に杖を突き立てた。


 何度も荒く息を吐き、抗議するかのように痛む頭に奥歯を噛んだ。


「君が、どう思おうと……誰がなんと言おうと……無価値な人間じゃないんだよ、僕にとっては……! 始まりからして間違っていて、今までの時間全てが君にとって残酷なものであったとしても……!」

「っ、うるさい……!」イチルはシロを睨みつけた。「綺麗事はもうたくさんと言ったでしょう!」

「そうだよ、綺麗事だ! でもそれが、今の僕にとっての真実なんだから仕方ないだろう!」


 シロが怒鳴れば、イチルは顔を強張らせた。賭博場だというのに部屋は静かで、シロが杖を投げ捨てる音がよく響く。


「イチル。僕には君の本当の願いが分からない。だから君を救う方法だって分からないんだ。それでも、助けたいんだよ。匣庭にいて、君が幸せな顔をしているんならいい。でも、全然そうじゃないじゃないか」

「……どうして、そんなにこだわるんですの」

「家族だからに決まってる」


 イチルの顔がくしゃりと歪んだ。その頬に手を当てて、涙を指先でぬぐって、シロは不格好に笑う。


「この言葉も綺麗事だって、君は言うんだろう。いいよ。それで、いい。薄っぺらい僕のことを嫌ってくれて構わないし、本当に帰りたい場所を見つけられるまで利用してくれたっていい。だから、どうか今だけは、愚かな僕にだまされたふりをして一緒に匣庭から出てくれないか」

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