第10幕 開幕

 その週の土曜日。この日はあれ――レストランでの事件――以来、初めてわたしと遊衣さんと亜実ちゃん、三人がそろってシフトに入る日だ。開店時間の三〇分前、いつも通りの時間にお店に着けるようわたしは家を出た。

 ファミレスでの騒動は、ネットニュースとして一時世間をにぎわせた。『事件?いたずら?流血大パニック』という見出しでまとめサイトにタイトルが並んだが、わたしは怖くて記事の内容を読めなかった。しかしテレビはもちろん新聞や雑誌など、いわゆるマスメディアは一切取り上げず、警察が動くこともなかったようだ。ただ食いの件はいまだに不安だが、きっとロバートさんがお金を払ってくれたのだろう。

 あの人はとんでもなくうさんくさい代わりに、悪人とは思えない独特な人なつっこさを持っていた。変な対比だが、いい人には間違いないのにどこかで〝裏〟を感じさせる伊佐屋さんとは真逆の印象である。

 店に着くまで平静を心がけていたのだが、やはりいつも通りというわけにはいかなかった。遊衣さんにどういう顔をしたらいいのだろう。お願いだから店にいないで、と思ったことを恥じた。

 果たして、遊衣さんは早くから店にいて、すでにフロアの掃除をしていた。

「おはようございます」

 返事はない。伊佐屋さんがお湯を沸かす音がコポコポと聞こえた。

 自分を無視する遊衣さんを尻目に、わたしは俯きながら更衣室に入った。そこではすでに亜実ちゃんが着替えを終えていて、なんだかぼんやりと椅子に座っていた。

「えへへ、なんか下に降りづらくて……。いのりさんを待ってたんです」

 亜実ちゃんの動揺は、わたしを〝いのりん〟と呼べないことでも明らかだ。あの件のせいで三人の関係が完全に気まずくなっていた。こんな調子じゃ、今日のお店の営業はどうなってしまうのだろう。

 ふたりそろって一階に降り、いつも通りの開店準備をはじめる。掃除をして、メニューを置いて、花に水をやって……その間、三人は無言だった。

 だが、静かでメイドらしい働きぶりに異を唱えたのは、意外にも伊佐屋さんだった。

「君たち、大丈夫か?」

 亜実ちゃんはハッとしたが、遊衣さんはマイペースを保っている。しかし、無理をしているのか彼女は明らかに精彩を欠いていた。床に置いたブラシ用のバケツを、彼女は蹴って倒してしまう。

 舌打ちをしてバケツを直す遊衣さんの元に、伊佐屋さんが近づいていく。

「香山さん、調子が悪いなら今日は帰っていい」

 それは間違いなく優しさから出た言葉だろう。でも、この人もじゅうぶん口下手だった。今の遊衣さんが、それを当てつけのように受け取ってしまうのは明らかだ。

 ガタン、と激しい音がした。

 遊衣さんは床にブラシを投げつけて、せっかく起こしたバケツをもう一度蹴散らしながら店を出て行ってしまった。メイド服のままで。

 わたしは、なにも言えなかった自分を恥じた。ファミレスの時の説明も亜実ちゃんに任せてしまった。今日だって、うまく遊衣さんの誤解を解く方法があったはずだ。

 いやそもそも〝誤解〟なのだろうか。わたしたちが勝手に暴走して、遊衣さんの夢を打ち砕いてしまったかもしれないのに。

 わたしは走り出していた。

「あ、いのりさん!」

 亜実ちゃんも思わずついてくる。

 彼女を追いかけて、何を言って何をしたらいいのか、そんなことはわからない。でも行動に移さずにはいられなかった。何よりわたし自身が、これ以上このモヤモヤに圧し潰されたら、もう戻って来られない気がしたのだ。




 アーケードを駅方向に抜けた先、駅ビルの正面にある広場の噴水に遊衣さんは腰掛けていた。正確に言うと、追いかけている間に彼女がつまずいてしまい、転びそうになりながらそこに座ったというのが正しい。

 おかげでわたしと亜実ちゃんは脚の長い遊衣さんに追いつけた。ふたりで彼女の正面に立ち、弾む息を整える。メイド服姿の女の子が三人、ただならぬ様子で駅前に佇んでいる光景は、きっと通行人には異様に映っただろう。そのざわめきを肌で感じてはいたが、今のわたしには意に介する余裕はなかった。

「遊衣さん」

 なんとも気まずい〝間〟が流れる。俯いたまま、なにを思ったのか遊衣さんはクスクスと笑い出した。

「なに? バッカみたい」

「……」

「なにか言えば?」

「……わたしが、バカみたいだということですか?」

 ああ、どうしてそんなことを言うのだろう、わたしの口は。隣で亜実ちゃんが不安そうな表情をしている。ここにはケンカをしに来たわけではないのに。

「そうじゃなくて。あたしがバカにされてるって言ってんの」

「……誰も、遊衣さんのこと……」

「だってそうでしょ!? あんたたちさ、あのときあたしのこと助けたつもりになってるんでしょ!? それでさ、素直にお礼も言わないもんだからあたしのこと見下してさ」

 それは異様な興奮だった。彼女がなにを言いたいのかがよくわからない。

「また黙ってる」

「……う、だって……」

 言葉のひとつひとつが、小石のようにわたしの顔に当たり、痛い。

「ああ、そうだよ! あんたたちの言うとおり、あのときは社長に、その……変なビデオの話を持ちかけられて――大ピンチだった。このまますぐに撮影に入ろうって、こっちの言い分も聞いてくれなくって……」

 遊衣さんは涙声になった。その膝が小刻みに震えている。やはりあのとき、イヤホンから聞こえた声はそういうことだったのだ。ロバートさんは適当なことを言っていたわけではなかった。

 だとしたら、どうして遊衣さんがわたしたちを避けたり、お店から逃げ出したりしなければならないのだろう。

「今になって思えば、ヌードでもAVでも、やるべきだった。こんな惨めなことになるくらいならさ」

 顔を上げて遊衣さんがわたしを睨みつける。わたしは、どういう表情をしたらいいかわからなくて、唇を噛みしめた。

「普通のやり方じゃ、あんたに勝てないもん。悠木イオリにはさ……。元天才子役がメイド喫茶でバイトなんかしてるのに、どうやったらあたしが声優やら女優やらになれるのよ!」

「……?」

 わたしがその言葉を理解するには時間が必要だった。どういうこと? 遊衣さんはわたしと自分を比べてたの?

「社長に言われた。わたしが〈カチューシャ〉にスカウトされた日、本命はあんただったって。あの子ならトップになれるけど、君じゃ人気が出ないから、芸能で生きて行くには一度濡れ場を経験しなきゃいけないって……」

「違うよ遊衣さん! あいつら、どうしても遊衣さんをそっちの道に引きずり込もうとして――」

「うるさい!」

 亜実ちゃんがかばってくれたが、遊衣さんの強烈なひとことで動きを封じられてしまった。この場、この関係は、わたしと遊衣さんの一対一の戦いになりつつある。

 わたしは喉の奥が熱くなってくるような感覚を味わっていた。

「悠木イオリはあたしの憧れだったんだよ? ほんっとうに天才でさ、映画観て何度も泣いたくらい、好きだったんだ。それがなんで女優やめて、あたしと同じ喫茶店でバイトしてんの? そんなのと比べられてたら、あたしなんか惨めになる一方じゃん!!」

 その理論、まったく同意できない。わたしがなにをしたというのだろう。口にこそ出せないが、やり場のない怒りが身体の奥の方から湧き上がってくる。

「あんたみたいな天才がさ、あたしたちに道を示してくれなきゃ、凡人が路頭に迷うのは当たり前でしょ!? 天才の美少女が、あたしたちと同じ空間で仕事してるんじゃないよ!!」

「……って」

 わたしは声を絞り出す。なにか自分の中で、結界のようなものが崩れる感覚があった。

「天才天才って……!」

「はぁ?」


「わたしのどこが天才なんだ!!」


 〝声がスパークする〟。それは、そういう感覚だった。腹の奥から声を出す。どんな喧噪の中でも声を遙か遠くへ届ける。訓練されたそのスキルで、わたしは遊衣さんに食ってかかっていた。

「毎日毎日レッスンして……。朝から晩まで演技をたたき込まれて……。喜怒哀楽、喜怒哀楽、喜怒哀楽、何回言われたかわかんない! 挙げ句の果てに涙を出すクセをつけるために毎日! 哀しくもないのに泣かされた!! 毎日楽しいことだけ経験していたかったのに、哀しいことを考えなさいって。泣くまで考えなさいって! それが親のやること!?」

 遊衣さんに向かいながら、まるで見当違いなものに対して、わたしは壊れたようにわめいていた。

「泣いたら泣いたで、五分で泣きやめって言われた! 顔は造るものだっていわれて、変な笑い方したら叱られて! 家族でおいしいもの食べてるのに、お母さんの顔見て、こういうときはこういう表情でいいですかって窺いながら食べるの! そんなのを十一年も続けたんだよ!? 最後には……最後にはさ、苦しい顔や痛い顔をするために、いつか殴られるんじゃないかって――」

 わたしはわたし自身の言葉に驚く。それが、わたしの恐怖だった。それがあるから、わたしの心の堤は崩れるのを待ってたんだ。それが、あの日限界を迎えた理由だったんだ。

 もう一度遊衣さんの顔をじっと見る。遊衣さんなら、わかってくれるはず。

 しかし彼女の答えは期待はずれだった。

「なに言ってんの? それが女優でしょ?」

 ひきつった笑顔で彼女は応えた。

 少し時間をおいて、冷静になればわかることだ。遊衣さんはわたしのことはじゅうぶん理解している。ただその時は、売り言葉に買い言葉で、口げんかに負けたくなくてそう言ってしまっただけだったのだ。

 なのに、わたしは、最低なことを――


「いのりさぁん!!」


 叫ぶ亜実ちゃんの言葉で我に返る。涙でにじんだわたしの視界に飛び込んできたのは、こめかみの辺りを手でかばうようにして身を縮めた遊衣さんの姿だった。

 わたしは、右手を振り上げていた。

 今にも遊衣さんを張り倒そうとして――。


「あああ」


「いのりん、もうやめよ」

 亜実ちゃんが震える手でわたしの背中に触れた。


「うああ、うわあああああああああああん!!」


「いのりさん!」

 わたしは声を出して泣いていた。きっと遊衣さんも呆然としているだろう。

 寸止めだったからいい、という問題じゃない。わたしは、わたしを追い込んだのと同じ方法で、遊衣さんを無理矢理従えようとしてしまったのだ。

 それがどれだけひどいことで、そのせいで自分がどれだけ苦しんで時間を無駄にしたか――わかっているのに、同じことをした。

「アアアアアアアアアアア!!」

 その埋め合わせをするのに、叫ぶような声で泣き喚くことしかできなかった。頭の中の理性がすべて吹っ飛んで、猛獣にでもなってしまったみたいに。


 パチパチ……


 妙な音が聞こえる。その音を、わたしの泣き声が邪魔していた。わたしは急に理性を取り戻して、その音を聞こうとした。自然と声が止まった。

 それは、拍手の音だった。

 いつのまにか噴水広場には多くの人が集まっていて、わたしたちの周りを円形に取り囲んでいた。その人たちが観客よろしくわたしたちの姿を見て、微笑みながら拍手をしているのだ。中にはもらい泣きしている女性もいた。

 当たり前だが、全員立っているのでスタンディング・オベーションである。

「あは、あははは……」

 遊衣さんは笑っている。なんなの、この状況――?

「もうやだ。自分で天才否定しといて、結果これだもん。ほら、見てみなよ」

 すっかり普通のテンションに戻ってしまった遊衣さんが、立ち上がってわたしの耳に囁きかける。

「あんなきれいな声でさ、よどみなくスラスラと感情たっぷりに演説かまして、最後はオペラ歌手みたいな大号泣。人間わざじゃない。負けた。こんなのに勝てっこない」

「は……?」

「周りの人たちみんな、これをお芝居の練習かなんかだと思ってんの。ほら、三人ともメイド服だし。今考えるとさ、あたしの方も芝居がかってたね。お互い女優だったんだ、うん」

 わたしは呆気にとられてすっかり涙も乾いてしまった。

「あ、本当だ。自由自在に涙を出したり引っ込めたり」

「そんなんじゃ――」

 わたしは遊衣さんの顔を見て息を呑んだ。彼女の方が泣いていた。

「ごめんね、いのり。ありがと。目が醒めた。あたしが間違ってたよ」

 わたしと遊衣さんが抱き合うのを見て、亜実ちゃんも手を叩いた。

「ほら、このままじゃみっともないから幕を下ろそ」

「え……?」

 しかしわたしはすぐにピンときた。亜実ちゃんも察したらしく、わたしの隣に並んで立った。

 三人そろって〝カーテシー〟。片足を曲げた完璧なやつ。

 ますますの拍手が響き渡った。

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