第9幕 事件

 わたしはメイド服を着て〈リリーズガーデン〉の入り口前に立っている。

 そこから発せられる、妖気のような不気味なプレッシャーを浴びながら。

 なにかがいる気配ではない。逆に静かすぎるのだ。中で伊佐屋さんがお湯を沸かす音、亜実ちゃんや遊衣さんがテーブルを拭く音、床をブラシでこする音。それらがまったく聞こえない。

 しかし不在や留守という気配ではなかった。いるのにいない、そんな矛盾した感覚が、言い知れない圧力となって腕の産毛を逆立たせている。

 わたしは意を決してドアを開ける。

 ああ、そして後悔してしまう。床一面に広がる液体。

 赤い、赤い血液。

 その海の真ん中に、事切れた男が突っ伏している。

 背中に突き立てられたナイフ。

 死んでいたのは、伊佐屋さんだった……。


「キャアアアアアアアアアアアッ!!」


 わたしは悲鳴をあげた。景色が一瞬でファミレスのものと入れ替わる。

 悲鳴をあげること。それが作戦の第一段階だった。

 亜実ちゃんは、わたしならできると言った。元女優だから。子役だったから。わたしは、遊衣さんを救い出すために、たった一度だけわたしのスキルを使うことにした。

 具体的なイメージを思い起こした方がリアルなお芝居ができるので、伊佐屋さんを殺してしまった。ごめんなさい。

 悲鳴と同時に、店中の全員がわたしの方を見た。ウエイトレスから厨房スタッフからお客さんから、みな目を真ん丸にして驚いている。ロバートさんまで衝撃のリアクションだ。そして奥のテーブルでは、遊衣さんがわたしを見つめていた。やはり極限まで目を見開いて、さまざまな疑問に脳をフル回転させているのだろう。

 横を見ると、亜実ちゃんがびっくりして固まっていた。そんなに大きな声だったかな?どちらにしろ、あなたまで悲鳴に驚いてどうするの。

しかしその表情が功を奏した。なにしろ亜実ちゃんは、顔面にトマトケチャップを塗りたくっているのだ。血だらけの少女にわたしが悲鳴をあげたという設定なのだが、こんな不自然な状況シチュエーションではとても演技ができないので、伊佐屋さんを殺したというわけだ。重ねてごめんなさい。

「逃げろ!!」

 そう叫んでロバートさんが飛び出す。顔中に(偽物の)血のついた少女と悲鳴。そして逃げ出す謎の外国人だけでその仕掛けはじゅうぶんだった。瞬く間に店内がパニックになり、ロバートさんが向かう方向に、人々が雪崩をうって動き出す。その方向には遊衣さんたちがいて、逃げ場も非常口もないのだが、パニックに陥った人間は、あらゆる判断力を失って最初に動いた人と同じ方向に走り出してしまう。

 これを〈スタンピード〉という。もちろん、お父さんのドキュメンタリーで知ったにわか知識なんだけど。

 スタンピードの威力は絶大だ。時に死者をも発生させるこの大混乱は、被害者であるはずの亜実ちゃんまで走らせていた。だから、あなたがつられてどうするの!

 悲鳴の発生源であるわたしは、どこか他人事のような冷静さで人混みをかき分け、遊衣さんに近づいていく。遊衣さんはとっくにわたしたちに気づいていた。

「遊衣さん!」

「ちょ、な、なにしてんの!?」

「説明はあとで!」

 わたしは遊衣さんの手を掴むなり、人の流れと反対側に歩き出した。一時的な混乱は、店が狭いこともあってすぐに収束しはじめた。その場から逃げながら後ろを振り返ると、手に破れた紙切れを持ったロバートさんがウインクしている姿が見えた。途中で亜実ちゃんも回収する。

「あ、あ、あ、亜実!!」

 その顔を見てパニクる遊衣さん。

「あ、これケチャップなんで……」

 説明するわたし。

 そんなこんなで店を飛び出し、路地裏の方へ夢中で走る。完全に犯罪者の気分だ。食事代とか払っていないけど、その時はそれを気にする余裕もなかった。中には一応〝大人〟のロバートさんが残っている。あとはあの怪しい軍人さんに任せるしかないのだろうか。

「離して!」

 数分走ったあと、遊衣さんがわたしの手を振りほどいた。よほど強く握ってしまったのか、彼女の手首は赤くなっていた。

 そこは大通りから路地を二本ほど入った飲屋街。小さなスナックが林立していて、まだ早いこの時間にはほとんど人通りもない。

「だ、大丈夫ですか?」

 亜実が血だらけ(偽)の顔で遊衣さんに声をかける。

「はぁ? なにが?」

 遊衣さんは眉毛をくっつきそうなほど八の字にしてそう言った。亜実ちゃんが、先ほど遊衣さんが陥っていた危機について、ざっくりと説明した。謎の外国人や盗聴していた件については割愛。すると遊衣さんの顔がみるみる真っ赤になっていった。


「バカ!!」


 遊衣さんが全力で怒鳴る。あまりの大声に、建物の軒から猫が飛び出していった。

「なんか勘違いしてんじゃないの? 確かに撮影の話はあったけど、イメージビデオで水着とか着るだけだよ? は、なにそれ、エロビデオとか……。ほんと、いい加減にしてよ!」

 あまりの剣幕に、わたしと亜実ちゃんは気圧されてしまった。 

 遊衣さんはわたしたちに愛想を尽かしたようにくるりと後ろを向いて、薄暗い通りをツカツカと歩き去っていった。

 本当にそうだったのだろうか。走っているときよりも強く早く、心音が鳴りはじめる。

わたしたちはあの変な外国人に乗せられてしまったのだろうか。

 考えてみたら、あれは盗聴器具を持ち歩いているアニメオタクのおじさんであって、その素性はまったく明らかではないのだ。亜実ちゃんにとっても、ただのチャット友達で今日が初対面。彼が発するおそろしく達者な弁舌に、わたしは完全に呑まれていた。

 もしかして大変なことをしてしまったのではないだろうか。

 ケチャップまみれの亜実ちゃんにカーディガンの裾を掴まれたまま、わたしは小さくなっていく遊衣さんの後ろ姿を見つめることしかできなかった。




 わたしは眠れぬ夜を過ごすこととなった。あんな〝事件〟があったのだから当然だ。

 暗くなった部屋であの出来事を思い返すとき、最も鮮烈に蘇ってくる光景は、意外なものだった。

 レストランで悲鳴をあげたその瞬間、一斉に振り向く人々。

 その注目の視線が矢のように突き刺さる感覚。

 それは、かつて自分が浴び続けた感覚だった。そしてその感覚は、〝快感〟として自分の身体に刻まれている。いろいろな舞台で子役として出演し、拍手と注目を受けていた日々。

 それは紛れもなく、〈悠木イオリ〉の――いや、〈沖田いのり〉の黄金時代だったと思う。

 わたしは〝あの日〟の出来事を連鎖的に思い出す。忘れることのできないその記憶は、タチの悪いことに頭の引き出しのいちばん手前に入っている。それがわたしから悠木イオリという人格と、豊かに醸成されたさまざまな感情を奪ったのだ。

 『一〇〇〇キロのノスタルジー』が封切られ、業界人の大きな賞賛が得られる中、十一歳のイオリは浮かれた気持ちで次なる活躍を確信していた。もっといろいろな映画に出たかったし、舞台の仕事も好きだった。母親がなかなか出られないテレビドラマやバラエティ番組にも出演してみたかった。父親がテレビマンだったから、その夢も程なくして叶うと信じていた。

 新しい舞台の稽古が始まって数日した頃、わたしは母親を捜して稽古場になっていた研修施設の廊下を歩いていた。お芝居の衣装合わせのために、母の立ち会いが必要だったのだ。母はイオリにとってマネージャー兼個人事務所の社長という立場で、世間には悠木イオリのプロデューサーとして知られている。

 イオリもまた母親のやることを信頼していたし、『ノスタルジー』が作品として成功したのも、彼女がそれと引き合わせてくれたからだと信じていた。

 いや、いま思えばイオリは、母の決断なしにはなにもできない、してはいけない子供だったのだと思う。しかしそれを当然と思うほどには幼かった。生き馬の目を抜くような芸能界で、母の手綱を失うことは恐怖以外の何ものでもない。

 母は主演女優の控え室にいるとのことだった。

 そのお芝居の主演女優は売り出し中のテレビタレントで、非常に好感度が高くイオリも大好きな人物だった。彼女に会えることも嬉しくて、イオリは軽やかな足取りで廊下を進んでいった。

 控え室の扉の前に立つと、イオリはノックをしようとして小さな握りこぶしを持ち上げた。だが、ドア越しに聞こえてきたのはなにか互いを罵り合うような声だった。

 イオリは最初、ふたりが稽古をしているのだと思った。お芝居の中に、かなり熱気のこもった討論シーンがあるからだ。

 イオリは興味に駆られてそっとドアを開けた。

 その瞬間、ぱしん、と乾いた音が鳴って主演女優が床に崩れていた。

 それはお芝居の稽古などではなかった。

 イオリの母――悠木律子が相手の女優を平手打ちしたその瞬間を、イオリは目撃してしまったのだった。そんなシーンはこの演目には存在しない。倒れた女優さんは歯を食いしばって泣いていた。

 イオリは母に見つかる前にそこから走って逃げ出した。それからのことはよく覚えていない。

 母親は演技指導の厳しい人だったが、イオリに手をあげたことはなかった。優しすぎる父親に至っては、それなりに怒ることも珍しかった。

 だが、イオリの中で言い知れない恐怖が渦巻き、猛獣のように襲いかかってきたのは事実だった。たかが平手打ち、と思う人もいるだろう。家庭によっては厳しい折檻が当たり前のところもある。

 しかしイオリには、母親の一撃はあり得ないものだった。いや、どこかで自分だけはと思うところがあったのかもしれない。その上で、母のビンタがいつか自分の頬に飛んでくるのではないか、その見えない恐怖にいつも苛まれていたのかもしれない。たいして優しくもない母親だったが、その一線だけは踏み越えないと信じていたのかも――。

 ただ言えることは、その日を境にイオリの中で演技や芝居というものの価値が失われてしまった、ということだ。

 あの強烈なシーンが頭から離れない。集中力を失って芝居ができない。それによってみるみる苛立ちを募らせる母。ぶたれる女優のヴィジョンが蘇る。堂々めぐりの悪循環を一日中繰り返すことで、イオリは完全なノイローゼ状態となった。

 そしてタイミング悪く父と母が離婚する。それすら自分のせいだと責めるイオリ。

 自分がうまく演じられないから、母が苛立ち、父に当たり、それで夫婦仲が悪くなったのだと想像した。

 それまでも学校を休みがちだったイオリは、まったくの不登校となった。

 引っ越しをして街を変え、家を変え、学校を変えたがうまくいかなかった。

 引きこもりのイオリを父の妹である芳野のおばさんが病院に連れて行った。不登校になってから、一年もの歳月が過ぎていた。そこで自分のトラウマと向き合い、ようやくイオリは自分の口から、おばさんを通して母に告げた。


「お芝居をやめたい」


 その頃はすっかり芸能活動をしていなかったのだが、その告白がきっかけとなってイオリは――いいや、わたしは自分を取り戻して新しい生活をはじめることができたのだった。ちょうど中学校に上がるという環境の転換もいいタイミングだったと思う。

 その時になると、思春期に入ったこともあって少しは積極的に母を非難できるようにもなっていた。皮肉にもそれが正常な心の成長には必要だった。かなりギリギリのタイミングで、わたしの神経症状は〝精神疾患〟のレベルに陥ることを逃れたのだ。

 今でも心療内科の先生が言った言葉を思い出すことがある。

『いのりちゃんは、子役という特殊な状況を経験したせいで、感受性が豊かになりすぎてしまったのかもしれませんね。蟻の一穴で堤が崩れる、という言葉があります。お母さんのビンタはそれ自体が原因ではなくて、いずれ心が壊れてしまう限界にあったのかもしれません。〝気持ち〟は関係ないんですよ。気持ちや気分とは関係なく、壊れるときには壊れてしまうものなんです』

 そんなものなのか、と呑気に考えることがいちばんの薬だったようにも思う。

 ただ、わたしはわたしの生きてきた十一年を否定することで、記憶喪失のような心の空洞を感じるようにはなってしまった。

 それまで感じてきたさまざまな感情が、すべて演技ではなかったのかと悩むことで、自分の思いを外へ出すことに違和感をおぼえ、自然と言葉数が少なくなっていった。

 学校が変わったことで、「いのりちゃん無口になったね」と指摘する友達はいなかった。それをいいことに、わたしは中学入学と同時に〝口下手デビュー〟を果たしたのだ。

 それが、自分を護ることだと信じて疑わずに――。

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