第11幕 店主

 わたしたちは〈リリーズガーデン〉に戻ることにした。気持ちは全然落ち着いていないし、まだまだ解決しなければならないことはあるけれど、とりあえず今日お店を開かなければなにも始まらない気がしていた。最低限の責任を果たすのが、バイトといえども仕事についている人間の義務だ。

 だが、お店の前でわたしたちは呆然となる。〈リリーズガーデン〉に続く裏路地の前に、真っ赤なスポーツカーが置かれていたのだ。アーケードは車両乗り入れ禁止なので、れっきとした進入禁止違反&違法駐車である。

「な、なんだろこれ」

「うちのお客さんじゃない?」

「フェラーリかな」

 ピカピカに輝いて、周りの景色を映り込ませる車体には、独特の威圧感があった。こういうクルマは一台でマンションと同じくらいの値段がするはずだ。こんなのに平気で乗る人間の気が知れない。

 路地を進むと、店の前に一人の男性が立っていた。

 ダークスーツに身を包んだ、屈強な体格の外国人で、サングラスをかけている。体つきはプロレスラーのように大きく、スーツの胸の部分がはち切れそうになっていた。どう見てもまともじゃない。

 三人のメイドが近づくことを躊躇っていると、その大柄な外国人は店のドアを開け、中に入るよう手で指示した。驚くほど丁寧で落ち着いた仕草だった。

「……な、なんか変じゃない?」

「と、とりあえず入ってみる?」

 わたしたちは拒むこともできず店に足を踏み入れた。

 そして凍りつくこととなった。フロアの中央のテーブルに腰掛けていたのは、〈エンゼルカチューシャ〉の矢水郁生社長だったのである。

 そしてその手前、わたしたちに背を向けるようにして、光沢のあるスーツに身を包んだ男性が座っている。客はこのふたりだけ。店の前の大男が、他の客を追い払っているのではないかとわたしは推測した。

「三人とも、こちらへ」

 伊佐屋さんがカウンターの中から手招きする。それが妙に心強くて、わたしたちは足早にカウンターの中に入った。まるでそこがシェルターのように思えた。

 カウンターからは客の顔がよく見える。矢水社長と対面している男性を見て、わたしと亜実ちゃんは声をあげた。

「ろ、ロバートさん!?」

 つい先日、朱門通りのファミレスを大混乱に陥れた張本人が、そこに座って紅茶を飲んでいたのである。

「ロバート……?」

 呆れたように伊佐屋さんが呟いた。

「彼はそんな名前じゃない」

「え? でも……」

「許してほしい。彼の名はジェイコブ=サーカス。この店のオーナーだ」

「ええええっ!?」

 三人ともが叫んだので、ロバートさん――もとい、ジェイコブさん? が迷惑そうに振り向いた。そして唇にそっと指を当てる。なんだかキュートな仕草だった。

「当事者も集まったことだし、話し合いを続けましょうか、ヤミズ社長」

 ジェイコブさんがそう言うと、矢水社長は面倒くさそうに首を回した。

 テーブルにはいくつか書類が並んでいる。ジェイコブさんはタブレットPCをなにやら操作しながら、彼と会話をしていた。わたしは最初、商談のようなものでもしているのかと思った。

「あの、なに話してるんですか?」

 亜実ちゃんが聞くと、伊佐屋さんはため息をつく。

「金持ち同士の意地の張り合いのようなものだ」

 わたしたちには、彼らの様子を見守ることしかできなかった。

「さっきも言いましたけどねぇ、ミスター・サーカスさんでしたっけ? こっちには契約書の原本もある。法的に問題のないことをあれこれいじくって、思い通りにしようってのは、日本語では〝脅迫〟って言うんですよ」

「キョーハク。それは失礼」

 ジェイコブさんはもう一度カウンターの方を見て、手を遊衣さんに向かって差し出した。

 あたし?って感じで彼女は自分の顔を指差す。

「今ね、ユーイの契約解除について彼と話し合ってたところなんだ。この前、アミたちと頑張って契約書を奪い取ったんだけど、あれコピーでさ。ワタシは回りくどいのは嫌いな方なんだが――彼、手強くてね。ほら、この前レストランで話したこいつらの手口とか、看破してやったのに『俺は悪くない』の一点張り」

「ビジネスマンらしく喋りましょうよ、サーカスさん」

 ジェイコブさんの子供みたいなすね方に、矢水社長は憤慨していた。

「こちらの条件は提示したはずです。香山遊衣くんの退職に伴う損害支払金は、慰謝料込みで二四四万八七〇〇円。こちらに細かい内訳もある。これを立て替えてもらえるなら、我々は手を引くって言ってるんです。なにも難しいことじゃない」

「それがさぁ、ワタシにとっては極めて難しい話でね」

「このビルのオーナーはあなたでしょ? 一般の経営者にとっては端金はしたがねだと思いますが。無理そうなら店でもなんでも売ればいい。なにも現金でって言ってるわけでもないしね」

 わたしと亜実ちゃんは顔を見合わせた。伊佐屋さんの様子を窺うと、不思議なことに顔色ひとつ変えていない。

「いや、お金じゃなくてプライドの問題なんだよ。うちの可愛い従業員をキズモノにしようとしておいて、それでいて金を払えば解放してやるっていう性根の悪さがさ、ワタシの気持ちを素直にしてくれないんだな」

 どうでもいいけど、ジェイコブさんの日本語力は大したものだ。ファミレスでちょっとイントネーションが変だったのは、演技だったのかもしれない。

「それが脅しだって言ってるんですよ。悪いですが、もしおかしなことを要求しようものならこちらにも考えがある。海外の資産家かどうか知らないが、日本に来たら日本のしきたりで戦ってもらいますからね」

「裁判とか?」

「ええ、必要に応じて」

「裁判でおたくのあくどい商売を万民に晒しちゃっていいってこと?」

 矢水社長は鼻で笑った。

「論点のずれた主張を法廷で許すほど、日本の司法はバカじゃないですよ。あと、たとえ裁判でそれを引き合いに出されても、こちらとしては名誉毀損で訴え返すだけです。逆にあなたの日本での評判がガタ落ちだ。こんな店、一発で吹っ飛びますよ」

 話し合いのはずなのに、会話内容がどんどん物騒になっていく。伊佐屋さんは、やれやれと首をすくめた。

「あの人の悪いクセだ。回りくどいことが嫌いと言っておきながら、とんでもなく回りくどい」

 ああなるほど、その悪いクセならあの日じゅうぶん堪能した気がする。

 ジェイコブさんは大きく椅子にもたれながら、指をくるくる回してなにかの合図をした。

 すると伊佐屋さんが忍者のように音もなく動き、ティーポットを持ってふたりのテーブルに近づいていった。

 そのままジェイコブさんのカップに紅茶のお代わりを注ぐ。

「ありがとう、ショウマ」

「ウィ、ムッシュ」

 伊佐屋さんが帰ってきた。わたしたち三人は、魔法を見るような目でその見事な〝給仕〟を見学していた。うまく説明はできないが、普段彼がわたしたちに口酸っぱく言っている作法や礼儀、さりげなさ、お茶を注ぐという職人的行為――それらがすべて完成された、あまりにも完璧な動きだった。

 このふたりの関係、もしかすると――。

「ではうちは次のカードを出そう。実を言うと、うちの会社は世界規模で、少年少女たちの違法搾取――極端な言い方をすれば〝人身売買〟について解決するための窓口を開設している。日本ではそこまでの例はないと思っていたが、少女たちの性的搾取については東南アジアと同等か、それ以下だ。とても先進国とは思えん」

「言わせてもらいますがね、ミスター。弊社は職業選択の自由に基づいて、法律に反しない範囲での映像製作しかしていない。イスラム国家じゃあるまいし、ポルノビデオすべてが禁止されてるわけじゃないんだ。我々は十八歳以上の〝大人〟の女性の自由意志に沿って契約を結び、真っ当な賃金も払っている。専属契約の社員として健康保険や厚生年金にも加入してるし、社会保障は手厚いくらいだ。定期的な性病の検査さえやってる」

 その生々しい内容に、遊衣さんは口に手を当てて嗚咽を堪えていた。確かに好きでやる人、自己実現のためにその世界に入る人は大勢いるけど、間違いなく遊衣さんは、そちらに行くべきではない人だ。彼女をなんとしてでも護りたい。この店の人間は、みなその想いで一致しているはずだ。

「まぁ、おたくの福利厚生はどうでもいいよ。とにもかくにも、その窓口を通じて、ワタシは今回、クラインボトルの経営するメイド喫茶と、ポルノビデオ撮影に関する社会問題を公式に提起してみたいと思う」

「はぁ?」

 矢水社長はこれ見よがしに首をひねる。わたしにもちょっと意味がわからなかった。意外にも補足したのは伊佐屋さんだ。

「ま、テレビ局に投書するとか、新聞に社説を書いてもらうとか、本を出すとか、そういう類の活動をすると言ってるんだ。ただあの人の場合、持ってるツテが違う」

「つて……」

 ジェイコブさんはタブレットになにかを映して、矢水社長に見せた。

「UNウィメンという国連機関があってね。女性の地位向上やさまざまな差別問題を扱ってるコワーイところだよ。そちらの極東調査員が、今度国連の公式なシンポジウムで発言の機会を得てるんだ。ワタシが言えば、君の会社を名指しで非難しながら、その手の内を全世界に晒してくれる。そうなればさすがに国際問題だ。恥をかく前に、あこぎな商売からは手を引くべきだと思うがね?」

 もう何度口をあんぐりさせただろう。今度は国連という話になってしまった。

「国連って、本当なんですか?」

 わたしは伊佐屋さんに訊いた。彼は呆れたように冷めた口調で、

「本当だ。言っただろう、金持ち同士の意地の張り合いだと。ただしこの問題はたぶん、〝殴り合い〟では決着がつかない」

 矢水社長は手を叩いて笑い飛ばした。

「いくらでもやればいい。逆に言えば、どれだけの企業が日々そうやって女性団体に訴えられてると思ってるんだ? 人権がどうのって裁判も毎日起こされてる。それでも日本のメディアは取り上げたりしない。誰かがドキュメンタリー番組を撮っても、それは深夜に放送されて視聴率は一パーセント以下だ。なんの影響力もない。それよりも、この契約違反で訴訟を起こされて、一人の少女の将来がめちゃくちゃになってしまう方がよほど不利益じゃないのかな? その国連の女性団体とやらが、あそこにいる女の子の面倒を見てくれるのか?」

 社長は喋りながら気分がよくなってしまっているようだった。矢面に立たされている遊衣さんが、哀れでならない。わたしは今なら、あの社長を遠慮なくひっぱたけるような気がしていた。

「それとも、あなたの家でメイドでもやらせて、賠償金の返済でもさせるか!? さすがに喫茶店のウエイトレスよりは儲かるんじゃないの?」

 最低だ! 遊衣さんは唇を震わせていた。いや、彼女のことだから怒りで飛び出していってしまいそうだった。かといってなにか行動に移せるほどわたしたちは勇敢ではなかった。こういうとき、ガツンとなにか言ってくれるのが大人なんじゃないのか、と自分勝手に頼ってしまうのが関の山だ。

 しかし伊佐屋さんもジェイコブさんも、身じろぎひとつしなかった。

「ショウマ、こいつやっぱり手強い。俺はお手上げだ」

 伊佐屋さんは大きく息を吐く。

「わかってましたよ」

「そんな……!」

 亜実ちゃんが声をあげた。わたしだってなにか言いたい。でも、口下手なのを別にしても、大人の世界の出来事に首を突っ込んで、なにかが変わる、変えられるという自信がなかった。悲鳴をあげてもなにも変わらない。誰かが一瞬、こちらを振り向くだけで……。

 遊衣さんは大きく首を振った。

「もう、いいです。あたし、働いて返すよ。もともと自分の不注意が原因なんだし。なんか、こんなことのためにいろいろしてもらって、すいません……」

「こんなことじゃない」

 ジェイコブさんがきっぱりと言った。

「それにきみだけの問題じゃないんだ、ユーイ。同じように苦しむ少女を増やしちゃいけないんだよ。確かにオレたちは、君のような女の子を救って訓練させて、世界中にメイドを派遣してきた。でも、もうメイドは要らないんだ。貴族もそんなにいないしね」

 どこか自虐的に笑うジェイコブさんを見て、わたしはなんとも言えない気持ちになった。もしかして、前にお父さんのビデオで見た、メイドを育てる学校や伊佐屋さんって、そういう――。

 すがるような気持ちで伊佐屋さんの顔を見上げると、彼はどこかに電話しているところだった。スマホを持ってる伊佐屋さんを初めて見たかもしれない。

「ええ、キョウシュクです。その件ではもうご迷惑はおかけしませんので。では、これにて――」

 一旦携帯電話を耳から話したあと、またつかつかとテーブルに向かっていく伊佐屋さん。

「お電話です」

 紅茶の代わりに、今までかけていたスマホを差し出す。受け取ったのは矢水社長だった。

 社長が話している間に、伊佐屋さんがスマートな足取りで戻ってきて、遊衣さんの肩に手を置いた。

「うちの時給はとうぶん据え置きだから、借金を返すのはちょっとな。それに君には他に夢があるんだろう?」

 そのあまりに優しい微笑みに、わたしも亜実ちゃんも、もちろん遊衣さんも、涼しい風に吹かれたような顔になった。

 それは茶葉のジャンピングを見てご機嫌なときの店長と、同じ笑顔だった。

「は? どういうことです? え、なんで?」

 電話をする矢水社長の顔が、みるみる青ざめていく。

 不謹慎な空想だけど、彼のお茶だけ毒でも入っていたのかと思ってしまった。それくらい顔色が悪い。

「ま、待ってください!! そんな無茶苦茶な!!」

 電話に向かって喚き散らす矢水社長。

 そんな彼を尻目に、伊佐屋さんが紅茶を淹れる準備をしながら、独り言を言うようにこう話した。

「リオン……あ、いや、そこにいるムッシュ・サーカスは、彼にチャンスを与えたつもりだったんだろう。だが私の方はせっかちでね。そういう〝組織〟を潰すには、資金源を断つのがいちばん手っ取り早い」

 間もなくお湯がコポコポと音を立てる。

「世界からインドをなくせば、ダージリンも飲めなくなる」

 例えは微妙だったが、だいたいどんなことが起きたのかはわかった気がする。

「は……ありえない……」

 電話を終えた矢水社長を見て、ジェイコブさんはコメディアンのように肩をすくめた。

「どうしたミスター。取引先の銀行から、いきなり融資を打ち切られたりしたのかな? それとも突然取締役会が開かれて、一方的に代表権を奪われちゃった? あ、その両方かな?」

「横暴だ! バカじゃないのか! こんなことが法治国家で許されるはずが――」

 ジェイコブさんは身を乗り出して、矢水社長のネクタイを掴んだ。その眼は、まさに海兵隊員でも通用しそうなほど、鋭く研ぎ澄まされていた。

「話し合いで納得してもらえなかったんでな。悪いが〝戦争〟にさせてもらった」

「せ……?」

「この世界でも本当にひと握りの金持ちは、自身の都合で戦争を起こすことも終わらせることもできる。今回は……御社の法に則った姿勢に敬意を払って武器を使わない戦争で済ませてやった。だが次は〝武器〟を使う。生きていられると思うな」

 矢水社長はその場にへたり込んだ。いったい伊佐屋さんが誰に電話して、どういう会話がなされたのか、それはわたしたちにはわからなかった。

 だが、目の前で一人の経営者がすべてを失う瞬間を目にしたのは間違いなかった。

 なんだか怖い。しかし本当に怖いのは、そんな状況でも伊佐屋さんが平然と開店準備をしていることかもしれない。

「ハリー、ハリー!」

 ジェイコブさんが声をかけると、ドアから例の大柄な外国人が入ってきた。

「彼を送っていってやれ」

 頷いたハリーという名の外国人――たぶんボディーガードか運転手なのだろう――は、すっかり生気を失った矢水〝元〟社長を引きずるようにして店の外に連れて行った。

 ということは、外の真っ赤なフェラーリ(?)はジェイコブさんの車だったのか。

「買い取ってしまった方が早かったのでは?」

 身内だけになった店内で、伊佐屋さんが声をかける。ジェイコブさんは、立ち上がって店の中をぐるりと見回しながら、

「だがオレはこの店のオーナーだしな。競合店まで手に入れるつもりはないよ。メイド喫茶はここだけでいい」

「〈エンゼルカチューシャ〉は残すと」

「ああ。働いてる女の子は護らないと。あの会社の事業部を分解して、適当な後釜を見つける。それにアニメも惜しいんだよなぁ。シーズン2になって神がかってきたところだし。あれも残そう」

「ご自身で経営すれば自由にできますよ」

「バカ野郎。オレが楽しみにしてるアニメをオレがつくってどうするんだよ。無粋の極みだ。ていうかショウマ、オレをとことんこの店から遠ざけようとしてないか?」

 微笑ましい会話だけど、わたしにとっては異世界の言葉のように聞こえた。このふたりの関係は、わかったようで謎に包まれていて、本当に混乱する。でも、知らなくてもいいこともきっと世の中にはたくさんあるのだ。

「あのー」

 亜実ちゃんが片手を挙げた。

「あたしのチャット友達のサンダーボルテスさんは、結局そこの、オーナーさんだったということでしょうか……?」

 彼女は目をくりくりさせてそう訊いた。ある意味騒動の発端だが、亜実ちゃん自身も被害者なのは間違いない。

「いいや、途中からオレがアカウントを乗っ取ってた。〝彼〟とはたまたま趣味が似てたんでね、違和感なかっただろう?」

「え? 乗っ取ったって……?」

「この人の悪い趣味だ」

 呆れた様子で伊佐屋さんが言う。

「時系列を追って話そう。君たちも当事者であることだし」

 そう言って店長が明かしたの顛末は、わたしにとっても驚きの連続だった。

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