新章8

 照明を消し、メロンを抱いてベッドの上にうずくまった。やけに川のせせらぎが大きい気がする。セオを起こして一緒に車で逃げようかとも思ったが、夜の道路にぽつんと走る車を想像すると、その後ろに見覚えのある車が現れるような気がした。

 アギンはどうしてこんなにわたしを悩ませるのだろう。平気な顔をして、わたしをどん底へ叩き落す。いつまで続くのか。

 もしアギンが捕まったとしても、わたしはアギンのことを考え続けそうな気がする。監獄の中の彼を想像し、眠れない夜を過ごすだろう。きっとそうだ。そこからは、誰も助けてくれない。

 動悸からくる重苦しさが眠気と混じり、さらに苦しさが増してきた頃、コンコンと窓を叩く音がした。

 わたしは飛び起きた。メロンは眠っているようだ。

「サヤさん」

 窓の外からセオの声がする。カーテンと窓を開けると、月明かりの下にセオが立っていた。

「起きてたんですか」

「起きてたんですかじゃないですよ。なんですか?」

「フジカゲが来ます」

「え?」

「見えるんです。走ってきてるようで」

「走ってきてる?」

「肉体強化はもうされていなくても、人間の潜在能力ってすごいですから」

「そういうことじゃなくて。入院中ですよね?」

「抜け出したんでしょうね。俺に会いに来るとは考えにくいと思うので、サヤさんに会いに来るのかもしれません」

「……そうではないかもしれません」

「え?」

「車出してください」

 もう、こわいとか言っていられない。その時頭に浮かんだのは、フジカゲを守りたいということだった。わたしにはなにもできないはずなのに。

 パーカーを羽織って玄関へ向かうと、居間の襖が突然開いて、飛び上がるほど驚いた。

「サエさん」

 居間の明かりを背に、おばあさんが目をこすりながら出てくる。

「どうしたの? こんな時間に」

 わたしは呼吸を整える。

「すみません。起こしてしまいましたか」

「布団にも入らないでうとうとしてただけだから。なにかあった?」

「いえ」

「あ、ごめんね。声かけないほうがよかったね」

 おばあさんは確実に誤解している。

「いえ、あの」

 わたしはメロンを残した奥の部屋の襖をちらりと見た。

「いつもご迷惑かけてすみません」

「なに言ってるの。むしろありがたいよ」

「なにかあったら、メロンをお願いします」

 わたしは家を飛び出した。


 自動運転車のヘッドライトは街灯のない田舎道の表面を昼のようにする。セオはじっと前を見つめていた。話しかけてはいけないのだろうかと、別に言いたいこともないのにセオの横顔をうかがってしまう。

「別に話しかけても大丈夫ですよ」

「え、わたしの心が読めるんですか?」

「いえいえ。なんとなく察しただけです」

 元調整者はそういうこともできるのかと一瞬本気で思ってしまった。

「……フジカゲさんの居場所はわかるんですね?」

「いえ。この辺りは監視カメラが少ないですね」

「わからなくなっちゃったんですか?」

「大体の地区はわかるんですが」

 わたしはスマートフォンを見た。アギンの現在位置。先程は車のスピードで動いていたのに、今はとまっている。信号だろうか。それにしては、なかなか動かない。

「セオさん、その大体の位置ってここですか?」

 セオにスマートフォンを見せると、彼はうなずいた。

「そうですね。これはなんですか?」

「アギンの位置です」

 わたしはアギンから電話がかかってきたことを話す。

「それ、早く言ってくださいよ」

「フジカゲさんと関係があるんでしょうか」

 セオは無言で車のスピードを上げた。

 目的地は恐ろしいほどすぐそこだった。わたしの感覚が狂っただけかもしれないが。とにかく、周りにはなにもない道路の真ん中にとまっている黒いコンパクトカーを見つけた時、まるで一瞬にしてこの場所に引きつけられてしまったかのように思えた。

 アギンのすらりとした姿が二台の車のヘッドライトと月明かりに照らされ、やけにはっきりとして見えた。どうしてこんなところで車から降りているのだろう。アギンはこちらへ振り向くと、すぐにこちらへ駆け寄ってきた。

「助けてください」

 セオの横の窓を叩いてそう言ったアギンは、今までに見たことのない表情をしていた。怯えを隠そうとしている人の顔。

「あれ? サヤ? セオさん?」

 しかしその表情はすぐに消え、いつもの余裕あるアギンに戻る。

「なんだあ。これがドッキリってやつ? ビビっちゃったよ」

 その時、アギンが消えた。なにが起きたかわからなかった。本当にアギンが消えたのだ。叫び声がすぐ近くで聞こえた。

 セオが車から飛び出し、わたしも続いた。

 車の横に仰向けで倒れたアギンの上に誰かが乗っていて、アギンのあごを左手で押さえていた。もう叫びはない。そして人物の右手がさっとアギンの首の横の空間にひらめいた瞬間に、ぐっしょりと濡れた革袋を無理に破いたような音がした。

 セオの車の前のタイヤとフェンダーあたりに、派手に泥が撥ねた跡がついていることに気づいた。アギンの頭の横だ。さっきまではなかったような気がしたが。付着した液体が下に伝って長くなる。

 セオがなにか叫びながらその人物をアギンから引き離すと、顔面を殴った。人物は道路わきに吹き飛ばされる。

 倒れたその人物は、フジカゲだった。アギンも倒れたまま。

「フジカゲ! なんだよ! なんなんだよ!」

 セオはフジカゲのトレーナーの襟元をつかんで揺さぶった。

 アギンの目は開いている。前方のアギンの車からの光で顔ははっきりと見えるが、なぜか別人のように見えた。特にその瞳。こんなに黒かっただろうか。黒というより、闇ではないか。

「すまん、セオ。でもこれでいいんだよ」

 フジカゲの声だ。いつも通り落ち着いている。先程の素早い動きをしたのは、本当にフジカゲだったのだろうか。わたしの目はアギンから離れない。

「なにがいいんだよ!?」

「俺たちは悪者になろう。みんな、つらい訓練に耐えられたんだから、これからも耐えられるだろう」

「つらかったから、これから幸せになるんじゃないか!」

「すまん。調整者は悪者でいたほうがいいんだよ」

「どうしてだよ」

「潜在意識を守れ」

 フジカゲはなにか特殊な身体操作をして、まるで蛇のようにしなやかにセオから逃れると、立ち上がってわたしの背後の道へ目をやった。彼は、先程までアギンが立っていた位置で二台の車の光に挟まれ、はっきりと際立って存在しながら、なにかを見通しているようだった。下ろした右手の人差し指と薬指が濃い色に濡れている。

一瞬だけわたしを見て、セオへ振り返る。

「じゃあな、セオ」

 フジカゲはとぼとぼと道路わきを歩いていった。わたしはしばらく見送っていたはずだが、セオを見た時、彼はずっとそうしていたように道路にしゃがみこんで頭を抱えていた。しかしわたしの視線に気づくと、車に戻ってスマートフォンを取り出し、電話をかけ始めた。

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