新章7

 日光が降り注ぎ、そよ風が吹く中庭に、フジカゲはスーツ姿の女性と一緒に立っていた。女性はなにかを熱心に話していて、フジカゲは女性の顔を見ては花壇に目を移したり、空を見上げたりと、聞いているのだか聞いていないのか曖昧な様子。

 フジカゲは、数メートルの距離に近づいたわたしたちのほうへタイミングを見計らっていたかのように振り向き、笑顔を見せた。

 女性もわたしたちに顔を向ける。その顔に、なんだか見覚えがあった。フジカゲとセオより少し年下くらいか。

「フジカゲにも取材してたんですか」

 セオは女性に呆れたように言う。

「セオさん。奇遇ですね」

 女性は少し嬉しそうだった。

「ちょっとお話を伺ってたんです」

 その声で、彼女はあの真夜中のドローン女だということに気づいた。

「あなたが一方的に話してるように見えましたけど」

 セオの言葉に女性は動じない。

「わたしたちの考えを理解していただきたいと思いまして。フジカゲさんはとても聡明なかたであるとの評判ですし、そのようにお見受けします。どうしてこのようなことになってしまったのか、本当に残念です」

「サヤさん、セオ、また来てくれてありがとう。みんなで座って話しませんか」

 フジカゲはいつも通りだ。

「わたしはこれで失礼します。フジカゲさん、ありがとうございました」

 女性は立ち去った。フジカゲはベンチに座ると、あんな人に耳を貸すことはないと言うセオを見上げる。

「でも、あの人にもいろいろと事情があるそうだよ。ご主人と息子さんが統合失調症らしいんだ。調整がそのような脳の病を駆逐するから、一般人にも調整を広めようとしているのに、僕が精神病院に入院していることがネックになっているようだね」

 女性が言っていた、「悪夢」という言葉を思い出した。悪夢とは病気という意味だったのだろうか。絶対に違う気がする。

「家族が統合失調症だからって調整を国民の権利にしようだなんて、飛躍しすぎてないか?」

 セオの言葉にフジカゲは穏やかにうなずく。

「確かにね」

「調整っていうのは肉体強化も含まれてるだろ? それについてはどう考えてるんだろう」

「さあ。でも、それを魅力的だと思う人がいることは理解できる」

「フジカゲ、お前は調整権利推進派に同調するのか?」

「いやいや、そんなわけないだろ」

 フジカゲの否定は、意外なほど強かった。

「理解できるからこそ、危ないってことだよ。彼女たちが言っているのは、突拍子もないたわごとってわけじゃない」

「危ない?」

「また来たら、上手く追い返すよ」

「彼女たちってことは、あの人一人がやっているわけじゃないんですね?」

 わたしの質問に、セオがあきれたように言う。

「団体だって言ったじゃないですか。構成員はそれほど多くないらしいですが、賛同者は万単位に上ると言ってました。あの代表が」

「まあまあ、この話はこれくらいにしておこうよ。せっかくいい天気なんだし」

 フジカゲは、わたしとセオもベンチに座るように勧め、わたしたちはそうした。

「……お前が天気のことを言うなんて珍しいな。土砂降りだろうが快晴だろうが、いつもなにも言わなかったし、ほかのやつが天気のことを言った時に、それがどうした?って不思議そうに言ってたこともあったのに」

「確かに。でも先生に、そういう会話も必要だって言われたんだよ」

「それを素直に受け入れたわけか」

「そうだよ」

「へえ……」

「そんなことより、いつ退院できるんですか」

 わたしが言うと、フジカゲはわたしの顔を怪訝そうに見た。会いたかったフジカゲに会えたのに、まったく安心できない。

「もうそろそろ退院できるとは言われてるんですけどね」

「フジカゲさん、今のフジカゲさんってまだなにか問題があるんですか?」

 知り合った頃と比べると、フジカゲの表情がわかるようになった気がする。それは治療の効果なのか、わたしが見慣れたからだろうか。

 不思議そうな顔をしたのは、わたしが言ったことが意外だったからか。わたしだって心配しているのに。

「うーん……やっぱりまだ完全に治ったというわけじゃないようです」

「全然そんな風に見えませんけど」

 見えるかどうかは問題ではない。わかっている。でも、思わずそう言ってしまい、次の言葉も口をついて出た。

「早く退院してください」

「はい」

 フジカゲは力強くうなずいた。セオは、再審請求についての話を始めたが、フジカゲはどこか上の空に見えた。

「おい、聞いてるのか?」

 セオの言葉に、フジカゲは虚空から目を戻し、セオに微笑んだ。

「聞いてるよ」

 しかしフジカゲは、続けられるセオの話を受け流し、首を縦に振らなかった。

それから数週間が経っても、治療が進展しているとか、退院が近づいているという話はなかった。セオも、これからどうしたらいいものか、悩んでいるらしい。

代わりに入ってきたのは、ある政党が、次の選挙の公約として、調整権利を国民に与えることを掲げたというニュースだった。その政党は弱小であるが、その公約は大きく報じられた。


 調整権利推進派のことをネットで調べた。

 普段、やっていないので知らなかったが、SNSではかなり話題になっているらしい。若者を中心に、共鳴する人々も少なくないようだ。

 調整者の暴力犯罪問題が取りざたされたのに、どうして調整を求める人々がいるのか。わたしは、『被差別存在としての軍人』という記事を見つけた。

 かつては、軍人は尊敬される職業であったが、三十年ほど前に政府が行った人権強化キャンペーンの影響で、危険を伴う仕事が機械に置き換わっていった過程で、自ら危険や試練に身を投じようとする人々は普通ではないという考えが一般に刷り込まれていったという。

 そのため、肉体的負担の大きい職業である軍人は徐々に、尊敬の対象から、少し異常な存在として距離を置かれるものへと変化していった。社会の在り方が、人々の考え方を変えた結果だ。

 はっきりと顕在してはいなかったものの、軍人は密かに差別されていたし、今も、元軍人が差別されている。調整者の暴力的犯罪率が高かったのは、調整のせいではなく、そもそも軍人だからと考える人々も多いというのだ。

 わたしはその記事を読んで思った。つまり、調整を求めている人々は、自分たちは大丈夫だと思っているのだ。自分たちは、おかしな軍人たちとは違うのだと。

 目が疲れたので、少し休もうと目を閉じた。

 目覚めると、わたしの上で柔らかいものがもぞもぞと動いていた。

 ハッハと息遣いの音がして、小さな足がわたしを踏む。いつも夜は大人しく寝てくれるメロンが珍しい。手を伸ばして枕もとのスマートフォンを見ると、時刻は夜の十二時だ。照明をつけたまま、三十分ほど眠っていた。

「どうしたの、メロン」

 メロンは、起き上がったわたしを見上げて右往左往し、両前足を上げてわたしの胸辺りをつつこうとする。なにか言いたそうだ。

「なに? ご飯食べたでしょ?」

 耳をピンと立てたメロンの頭をわしゃわしゃとなでたが、落ち着く様子はない。

 その時、ベッドの上のスマートフォンが鳴った。アギンの名前が表示されている。

 わたしはそれを見つめて体を硬直させた。メロンが反応してスマートフォンを前足でつつく。

 それをやめさせようとスマートフォンを取り上げた勢いで応答した。

「サヤ?」

 朗らかな声が聞こえる。

「アギン」

 心臓が痛い。

「ごめん寝てた?」

「どうしたの?」

「どうしてるのかなあと思って。サヤって今どこに住んでるの?」

「どこって言われても……そんなに遠くないけど」

「もしかして、トミノ川の近く?」

「え? なんで?」

「トミノ川好きだって言ってたじゃん。それに川のせせらぎみたいな音が聞こえるから」

「そうだよ」

 嘘をつけなかった。今度は逆に体の力が抜けそうだ。

「今、ドライブしてるところなんだ。今から会わない?」

「どうして?」

「サヤのことが好きだからだよ」

 その言葉には、照れも重みもなかった。

「嘘でしょ」

「嘘じゃないよ」

「わたしなんかのどこがいいの」

「前にも答えたと思うけど、その答えはなんかやっぱりしっくりこない気がする。人を好きになるのにしっかり説明できる理由なんて本当はないんじゃないかな」

「かっこつけてる?」

「かっこつけてないよ」

 アギンは楽しそうに笑う。

「じゃあさ、俺の位置情報を送っとくね。もし俺が近くに行ったら教えて。会いに行くから」

「そんな」

「本当はサヤも会いたいんでしょ? いや、なにも言わないで。それじゃ」

 通話は切れ、ポンとスマートフォンの中に窓が開いた。点が地図の中を移動している。それは、予想よりもはるかにわたしがいる場所に近かった。


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