新章4
「この部屋に移ったってことは、退院が近いってことか?」
来客用らしき椅子に座って身を乗り出すように言ったセオに、フジカゲは「さあ」と他人事のように答えた。
「わからないんだよ。回復はしてるって言われてるんだけどね」
フジカゲは穏やかに言って、わたしを見る。
「花瓶がなくて申し訳ないです」
「いえ……置いておきます」
その会話の馬鹿馬鹿しさが不思議とわたしのトラウマのふたをしてくれたらしい。この状況の原因となった過去が嘘のような気がした。
「メロンは元気です。わたし今、おばあさんと同居していて、おばあさんもメロンを可愛がってくれていますし」
「そうですか。ありがとうございます」
「お前、話し方が機械みたいになっちゃったな」
セオは冗談めかして言う。
「セオも人のこと言えないと思うぞ。サヤさんはどう思いますか?」
「え? ……どうでしょうね。わたしからすると、フジカゲさんは変わらないと思います」
調整者時代はどうだったのか知らないが、当時も調整のせいで精神に影響が出ていたらしいという話ではないか。本当の精神状態だったのは、調整者になる前だけだったことになる。そう考えると、この二人は、本当のお互いを知らないということになってしまうのだろうか。しかし、少なくともセオはフジカゲを友達だと思っているらしいし、フジカゲのセオに対する態度も、友達に対するものとして違和感がなかった。
「とにかく、元気そうでよかった」
セオは、元調整者への風当たりが強まっていること、わたしを探して話を聞いたこと、ジビに会ったことを順序だてて簡潔に説明した。
「お前は、アギンというやつのデータを見て、脳で分析してしまったから、あんなことをしたんだろう。でも、裁判では、ただ単に突然お前の頭がおかしくなったことにされてしまってる。これじゃおかしいだろう」
フジカゲは視線を下に向け、静かにセオの話を聞いていた。
「お前は、裁判の時も混乱してたと言ってたけど、本当にそうだったのか?」
「どういう意味だ?」
フジカゲは顔を上げる。
「事態を単純化するため、もしくはサヤさんかジビさんかアギンをかばおうとして、あえて黙ったんじゃないのか?」
「どうして僕がそんなことをしなきゃいけないんだ」
フジカゲはかすかに不快そうな表情をした。
「理由はいろいろ考えられるよ。サヤさんに特別な感情があって、サヤさんがアギンを愛しているから告発をためらった、とか」
「その両方ともあり得ない。本当にまともに証言できる状態じゃなかったんだ」
「でも」
わたしは思わず口を挟んだ。
「最後に会った時、フジカゲさんはわたしに、アギンと別れるように言いました」
「え、そうなのか?」
セオは驚いたようにフジカゲを見る。
「憶えてますか? フジカゲさん」
「はい。確かに言いました。僕にはアギンさんの潜在意識がわかりました。だからそう言ったんです。でも、彼が実際になにをしたのかまではわかりません」
「フジカゲさん」
わたしは立ち上がり、カットソーを脱ぎ捨てた。
「サヤさん、なにしてるんですか?」
そう言ったのはセオだった。わたしはフジカゲに背を向け、ブラジャーの後ろのホックをはずして前を手で押さえた。
「これを見てどう思いますか?」
わたしの質問にフジカゲの冷静な声が言う。
「アギンさんの潜在意識からつくったデザインのタトゥーですね」
「本当にこれがアギンなんですか? これはなんなんですか?」
「説明するのは難しいです。でも、それは確かにアギンさんです」
「それってどういうことですか!? アギンは自分の快楽のために女性ばかりを殺して回る連続殺人鬼でしょ? これは願望ですか? 理想ですか? 憎しみですか? 記憶ですか?」
「わかりません。そういう風に簡単には説明できないと思います」
「サヤさん、落ち着いてください」
セオが床に落ちたわたしのカットソーを指先でつまんで渡そうとしてくるが無視した。
「納得できないだけです。教えてください。教えてくれるのはフジカゲさんしかいないんです」
わたしは背を向けたまま、思わず歯を食いしばっていた。
「すみません」
フジカゲの声は大げさでない分、本当に申し訳なさそうに聞こえた。
「僕にはわかりません。アギンさんのことはよくわかります。でも、心の底を説明することはできないんです」
「よくわかるって、なにがわかるんだ?」
セオの質問に、フジカゲは確信を持っているような口調で答えた。
「いろいろね。アギンさんと会いたいなら、居場所の目星を教えるよ」
アギンの心の模写が一時期、自分の中に鮮烈に浮き上がりすぎてしまったというフジカゲの説明は、わたしにはほとんど耐え難いものだった。わたしは気分が悪くなってしまい、セオに連れられて病室から退出したが、セオはまだフジカゲと話したそうだった。
ただ、セオが自分一人でアギンを探しに行くと言った時、わたしはすぐさま、自分も一緒に行くと申し出ていた。
アギンはわたしをこんなに苦しめているのに、アギンにかかわる事態をセオが勝手に進めるのが気にくわなかった。わたしは弱いが、強情だ。面倒な女だと思われるだろうということはわかっていたが、仕方ない。セオにどう思われようが関係ないだろう。
フジカゲが言うには、アギンはわたしを巻き込んだことで、同じような行動パターンは慎むのではないかということだった。居住地も変えるだろう。しかし、彼は彼のままだ。なにかを後悔したり、改めたりは決してしないタイプの人間。
わたしはめまいを覚えながら、フジカゲに、どこまでアギンのことを知っているのかと尋ねた。フジカゲは、わからないと答えた。
「僕の言うことはすべて間違っているかもしれません。僕は自分の頭の中にあることだけを根拠に話しています。僕にとっては、それは絶対に正しいと思えますが、そんな実感も偽物かもしれません。本当にわからないんです」
そう言われたら、もうそれで納得するしかない。
わたしは正直、フジカゲが言うことが間違っていてくれたらいいと思った。正しいとしたら、さらにおぞましいことだから。
セオとわたしは車で、ある山の中へ入っていった。よく晴れていて、びっしりと生えた葉の影がアスファルトの上に揺れ動く刻印のようだった。
セオは黙って車を山の上方へ走らせた。すれ違う車はない。もちろん人の姿もない。
結局、その山にはなにもなかった。その隣の山にも車で登ってみた。セオは、降りてみようとは言わなかった。山の中に監視カメラはないはずだが、なにか、ほかの監視機能があるのかもしれない。セオには、わたしには見えていないものが見えているような気がした。
そんなことを数日間続けた。フジカゲが指定した、自然豊かな場所の山をひたすら車で登っては降りた。
セオもわたしも、フジカゲを信じていた。そのことだけが、セオとわたしの強いつながりだった。
そしてある日。曇り空からは今にも雨が降り出しそうだった。
車が通れない狭い道が現れた時、セオは初めて、降りて歩いてみようと言いだした。わたしは従った。空気が湿ったにおいがする。
狭い道の先には、グレーの石造りの家が建っていた。空っぽの花壇がある庭は広い。
膝をついて草を毟っていたのは、ゆったりとしたワンピースを着て、長い髪を束ねた若い女性だった。こちらへ向けた顔は美しい。
「すみません。こちらはアギンさんのお宅ですか」
ためらいなく尋ねたセオの言葉に、女性は驚いたように立ち上がった。
その腹が膨れていることに、その時気づいた。
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