新章5
アギンは出かけているという女性の言葉を聞き、セオは立ち去ろうとした。
「あの、どちら様ですか?」
セオとわたしの顔をチラチラと見る女性の言葉に、セオは、「フジカゲの知り合いです。フジカゲのことをご存知ですか?」と言った。
暑くないのに汗が噴き出してくる。この張り詰めた空気はわたしの錯覚なのだろうか。
女性は首を振る。
「どなたですか?」
「ご存知なければいいんです。サヤさん、今日のところは帰りましょう」
セオはわざとわたしの名前を女性に聞かせようとしたのだろうか。
その時、裏のほうの別の道から黒いコンパクトカーが現れた。車をとめて降りてきたのは、黒い服を着た長身の男性。髪が少し短くなったアギンだった。
「あれ? サヤ? サヤじゃん!」
アギンは笑顔で手を振ってくる。
「久しぶり。どうしたの?」
「久しぶり」
わたしは防衛本能的に笑顔をつくった。妊婦はどこか不安そうにアギンとわたしの顔を見比べる。
「アギンさん、初めまして。セオといいます」
セオは丁寧に頭を下げ、アギンは手を差し出して彼と握手した。
「初めまして」
「今日はアギンさんにお願いしたいことがあってきました」
「えっと、サヤとはどういうご関係で?」
「自分はフジカゲの知り合いです。サヤさんもフジカゲの知り合いです」
「フジカゲ? 誰だったかな」
「あなたの潜在意識データを見たせいで頭がおかしくなって人を殺した元調整者です。お願いというのは、タトゥースタジオで保管されているあなたの潜在意識データを長期間保存することに同意していただきたいということです」
「アギン、一体なんなの?」
声を上げたのは妊婦だった。
「まあ、とりあえず家の中に入りましょうか。確か、紅茶と牛乳と水しかないんですけど、紅茶でいいですか?」
アギンは本当になにも変わっていない。いつでも上機嫌で、落ち着いている。
部屋に入り、セオの話を聞いてアギンが初めに言った言葉は、「その手続きってオンラインでできます?」だった。
セオはうなずいた。
「はい。できると思います」
「じゃあ、すぐにしておきますよ」
「アギン」
妊婦がアギンの袖をつかむ。
「やめてよ。この人たち、あなたの頭がおかしいと思ってるんだよ? それを証明するために、データを残すことに同意しろっていう話でしょ?」
彼女はなかなか賢い人のようだ。セオが、重要なことは包み隠さず率直に、詳細は上手くぼかしながら話したことを総合し、ほとんど事実そのままを把握している。
アギンはあきれたように彼女に微笑んだ。
「ネリ、そんなに警戒しなくて大丈夫だよ。この二人はいい人たちだよ。少なくとも、サヤはこんなこわい顔してるけど、いいやつだし」
彼は斜め向かいに座ったわたしにも微笑みかける。「こわい顔」か。
喉が渇いていたが、彼が注いだアールグレイには手をつける気にならなかった。
「えっと要するに、セオさんは元調整者を迫害から守る活動をされてて、サヤもそれに賛同してるってことだよね?」
セオは「そうです」と即答し、アギンはうなずいた。
「俺にもなにかできることがあったら言ってください。俺はただのしがないアーティストですけど、署名くらいならできるから」
「優しいんだから」
ネリという女性はあきれたようにつぶやいた。
アギンは、わたしたちの目の前で、ジビのスタジオのホームページにアクセスし、手続きをしてくれた。それが終わると、セオとわたしは早々に立ち去った。わたしはなぜか、アギンがわたしを引きとめるのではないかという妄想に襲われたが、もちろんそうはならず、走り出した車の中で、わたしはひそかに息を長く吐いた。
「ぞっとした」
セオのつぶやきは、初めて聞く声の質感を持っていた。
「なにがですか?」
わたしはなにか言ってくれたことに感謝しつつ、冷たい声を出してしまった。
「本当にあの人と一緒に暮らしていたんですか?」
「はい」
「サヤさん、見る目がなさすぎますよ。あんな恐ろしい男はいないじゃないですか」
「そう思うのは、あなたに予備知識があるからじゃないですか?」
「いや、俺にはわかります」
セオには自信があるようだ。しかし、継いだ言葉は弱々しい。
「でも……」
「でも、なんです?」
セオが口ごもるとは珍しい。
「あの人、アーティスト以外にはなにをしてるんですか? 前職とかは」
「なにもないと思いますけど……」
「アーティストとして彼はどうなんですか?」
「どうって、わたしにはよくわかりません。それほど売れてはいないと思いますけど。どうしてですか?」
「なんだか、俺たちと似た雰囲気を感じて」
「俺たち?」
「元調整者です。いや、きっと、体を鍛えてるからでしょうね」
「それほどでもないと思いますけど」
「いや、でも……」
セオは言葉を詰まらせ、なにかを振り払うように首を振った。
「……あなたがあの男と一緒にいなければ、フジカゲがあいつとかかわることもなかったのに」
セオは突然壊れたかのようにわたしを責めだした。その口調は怒っているというよりも哀れを誘うもので、それが余計にわたしを苛立たせた。
「そんなこと言っても仕方ないじゃないですか。もう起きてしまったことは取り返しがつかないんです」
「あなたはそう言って、あいつが殺した人たちやフジカゲのことを無視し続けてきたんですね」
「わたしが無能で無責任なのは認めます。でも、それはあなたに責められて直るようなことじゃないんです」
「どうしてそう相手を苦しめるようなことを言うんですか。フジカゲや俺たち元調整者がどんな苦しい思いをしてきたか、少しは想像しようとしないんですか」
「フジカゲフジカゲってうるさいですね。そんなにフジカゲさんのことが好きなら、ずっと一緒にいてあなたがフジカゲさんを守ればよかったんですよ」
わたしの言葉に新たな棘が生えた時、セオは黙ってしまった。
セオはわたしをおばあさんの家に送り届け、車から降りてこなかった。明らかに腹を立てていたが、立ち去る気はないらしかった。
頑固な人だ。いつまでわたしは彼に守られなければいけないのだろう。アギンが逮捕されるまでか。セオの目的が達成されるまでか。
セオの目的はアギンの逮捕ではない。そのことが、今日はっきりしたように思う。
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