新章2

 おばあさんにあの人は誰かと尋ねられたので、知り合いとだけ答えた。

おばあさんは、わたしがなんらかの事情を抱えているとわかってうえで家に置いてくれている。犯罪者だということも感づいているかもしれない。しかし彼女は、わたしの顔の傷を見て、かわいそうに思ってくれたらしい。自分でつけた傷だとは伝えていない。

 DV被害者保護施設の息苦しさに耐えられなくなって出奔した日、メロンを連れ、あえて徒歩で何キロも歩いた。気がつくと、まるで吸い寄せられるように、以前訪れたことのある田舎町に行きついていた。雨に降られ、メロンを抱えて自動タクシーを探し回っている時、傘を差して歩いていたおばあさんに声をかけられた。

 行くところがないと話すと、おばあさんは、わたしを家に招き、いくらでもここにいていいと言ってくれた。ご主人は数年前に他界していて、おばあさんの娘は家を出て行ってからほとんど帰ってこず、ずっと一人でいるだけだからと。

 わたしはおばあさんを利用している。わたしは誰かに頼って生きていく方法しか知らない。

 寝室で甘えてくるメロンをなで、ベッドに上がって来ちゃだめだよ、といつものようにたしなめた。夜は川の音がより一層大きく聞こえる。それなりに大きな川なので、初めのうちは気になって眠れなかったが、喧騒とは違い、自然の音は、慣れてしまえば癒しとなる。

床に伏せ、眠そうに目をゆっくりと瞬くメロンが可愛いなと思っていると、セオから、長文のメールが送られてきた。

 そこには、新兵時代のフジカゲとの思い出がだらだらと書かれていた。任務のことは書かれていない。当たり前か。

ざっと読んでみてわかったのは、フジカゲは真面目かつやんちゃだったということ。少なくとも、セオはそう思っていたらしい。

 セオは、わたしがフジカゲのことをどうでもいいと思っていると感じたのだろうか。

 それは合っているのだろう。でも、そう思われていることを知ると、なんだか不本意な気がした。否定できなくて、きまり悪くなるような感じ。

 これを読んで、フジカゲやセオにわたしが同情するようになるとでも思ったのだろうか。だとしたら純情すぎやしないだろうか。

 お金を賭けない賭け事で負け、さらなる筋トレをやらされたが、悔しくてさらに倍のトレーニングをしたというフジカゲ。

 なにか些細なことで同期と喧嘩をして、上官に大目玉を食らったあと、同期と上官に詫びの手紙を書いて評価を上げたが、一部の人からは煙たがれるようになってしまったというフジカゲ。

 セオと一緒に訓練をしていた時、慣れない技をかけてセオの首を折ってしまい、セオを一日寝込ませてしまったというフジカゲ。

 ある教官に熱心さを褒められ、嬉しくなったために非番の日にその教官の家に押しかけ、迷惑がられてしまったというフジカゲとセオ。

 メールに書かれたそれらのエピソードは、わたしの知っている彼らとあまり結びつかなかった。それは彼らが受けているという精神的治療のせいか、年月のせいか、両方のせいか、それとも、わたしの受け取り方のせいなのだろうか。

 わたしは、おばあさんの娘が使っていたというベッドから、古びたカーペットが敷かれた床に降り、伏せているメロンを抱きしめた。

 メロンは大人しく、わたしの言うことを聞いてくれる。渋々という雰囲気を出す時もあるけれど、そういうところも可愛らしい。

今までペットを飼ったことがなかった。なにかの世話をしたいと思ったことがなかった。

 子供が欲しいと思ったこともあったけれど、きっとそれは、アギンとの絆が欲しいだけだったのだ。今はそんな気持ちはなくなった。ただ、メロンは可愛いと思う。

 もし、アギンとまた会うことになったとしたら、わたしはどうするのだろう。平静を保てるだろうか。

 わたしは考えるのをやめたくなった。セオがわたしを利用したいならすればいい。彼の正義のために彼が闘ってくれ。わたしには正義なんてない。仲間もいないし、したいこともない。でも、捕まりたくないと思ってきた。それが唯一の人生の目標みたいなものだったのに、それすら揺らいできた。

 わたしは空っぽだ。かつて、フジカゲにわたしの潜在意識を見てほしいと頼んだことが今更ながら恥ずかしくなってきた。そんなことをしても、どうにもならないことが、今ならわかる。わたしの心にあるのは、くだらないトラウマの蛇だけ。

 このことに気づいただけでも、少しは成長したということなのだろうか。

 フジカゲはわたしのことを憶えているのだろうか。精神病院はどういうところなのだろう。白くて清潔? 汚くて暗い?

 もしわたしが行動すれば、アギンもそこに入ることになるのだろうか。いや、きっと入らないだろう。アギンの目はいつでも輝き、口調はいつも穏やかで明瞭で、言動には迷いや矛盾がなかった。

 この国のかつての極刑は死刑だったらしいが、人権強化によって、死刑制度は廃止され、極刑は終身刑となった。終身刑となった囚人はどのような扱いを受けるのか、教えてもらったことも調べたこともないので、わからない。

 アギンが捕まったとしたら、彼は、牢の中でも上機嫌なのだろうか。わたしの背中に描かれたデザインを憶えてくれている?

 わたしはあの日、アギンの理解不可能性に戦慄し、精神的失神をしてしまった。気がつくと上半身裸のまま住宅街を歩いていて、慌てて道を戻った。生命の危険を感じるくらい気温が高かったため、人出が極端に少なかったことが幸いした。

 アギンのことはまったく理解できない。そういう意味において、わたしにとってアギンとフジカゲは同じだった。

 ただ、フジカゲが精神病院にいるという事実より、アギンが牢に入るかもしれないという可能性のほうが、わたしの胸をかき乱した。わたしは、まだアギンのことを愛しているのだろうか?


 セオとわたしは、喫茶店でジビと会った。突然会いたいと連絡したにもかかわらず快諾してくれたジビは、モデルのような体型も髪型も変わっていなかったが、どこか怯えているように見えた。それも無理もないだろう。彼女もフジカゲの一件を知っている。

 わたしはあの日、ほとんど逃げるように帰ってしまって以来、ジビと会ってもいなければ連絡もしていなかったので、少し気まずかった。彼女はわたしのことも異常者だと思っているかもしれない。

 セオは、コーヒーが来るのも待たず、潜在意識分析についての専門的な質問を次々と投げかけた。ジビは数個目の質問で詰まってしまい、必要なら分析機械についての詳しい資料を送ると言った。

「今も同じ業務を行っているんですよね?」

 セオは、会話の冒頭にした質問を繰り返した。

「はい」

 ジビは疲れたようにうなずく。

「潜在意識データの再現性についてすぐに答えられないまま、その技術を使ってお仕事をされてるんですか? 仕事場のセキュリティはどうされてますか? ネットでも物理でも、盗まれないように厳重に対策されているんでしょうね?」

「もちろんです」

 即答しながらも、ジビの目はセオの顔よりも下がっていた。体はこわばっているように見える。

「ジビさん、すみません。セオさんはほかの元調整者のかたがたのために必死なんです」

 わたしが思わず言うと、セオは「別に必死ではないです」と冷静に否定した。わたしは口の中で謝り、恐る恐るジビに尋ねた。

「あの、アギンとは一回しか会っていないんですか? なにか連絡とかは?」

「サヤさんと一緒に意識分析をした時しかお会いしてませんし、連絡を取ったこともありません」

「そうですか……」

「フジカゲの事件はご存知ですよね? どうして証言しようとしなかったんですか?」

「え? わたしが証言を?」

 セオの言葉にジビは目をしばたたく。

「あなたが証言してくれたら、裁判でもっと違う見解が示されたかもしれないし、アギンのことも表に出たかもしれないのに」

「ジビさんはなにも知らないんです」

 わたしは久しぶりの外界からのストレスに早くも疲れ果てそうだ。

「ジビさんは悪くないです」

「責めているわけではありません。事実を確認したいだけです」

「責めているように聞こえてしまってますよ」

「あの、フジカゲさんの事件は、わたしにもなにか責任があったということでしょうか?」

「いえ、全然そんなことはありませんよ」

 わたしの言葉にかぶせるようにセオが言う。

「予期することが不可能だったかどうかは専門家に分析してもらわないと確かなことは言えませんし、責任があったかどうかは俺にはわかりません」

「セオさん、もうこんなことやめましょうよ」

 わたしはグレープフルーツジュースを勢いよくすすってから言った。

「問題なのは、アギンが殺人犯だってことです。そのことを証明できないと、フジカゲさんがアギンのデータに触れてしまったせいでああなってしまったということを明かせません」

 わたしは口元を引き締めて唇の震えを押さえようとした。

「え? 殺人犯はフジカゲさんですよね?」

 ジビは目を丸くする。わたしは首を振る。

「それが違うんです。いや、違くはないんですけど。あの、アギンのデータは今もあるんですよね?」

「はい。五年間はデータを保存――」

「絶対に消さないでもらえますか? もし五年を過ぎても」

「ご本人に確認できれば保存しますが――」

 セオが「ああ、迂闊だった」と言いだした。

「保存してもらわなければ困りますね」

「で、でもそれは契約上、ご本人の許可が必要で」

「アギンを探しましょう」

 セオはそう言ってわたしを見る。

 わたしは今まで、こんなに切実なため息をついたことがない。

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