14
ジビのタトゥースタジオに着いた頃には日が暮れてきていた。
「営業時間ぎりぎりですね」
フジカゲはほっとしたように言い、さっさと自動タクシーを降りる。
「あの、本当に行くんですか?」
わたしは降りようかどうか迷った。
「大丈夫です。僕に任せてください」
フジカゲとわたしはアポなしでスタジオに入った。奥からジビが出てくる。
「あら、サヤさん、フジカゲさん。どうしたんですか?」
驚いた様子のジビに、わたしはおどおどしてしまうが、フジカゲは申し訳なさそうな様子すらない。
「突然すみません。実は、サヤさんのお連れさんの、アギンさんのデータを見せていただきたいんです」
あまりにも単刀直入にフジカゲは言った。
「え、アギンさんのデータですか?」
「個人情報だということはわかっています。しかし、人命にかかわることなんです。アギンさんは――」
「ちょっと待ってください」
わたしはフジカゲの腕をつかんだ。
「なに話そうとしてるんですか?」
「話せばジビさんはわかってくれますよ」
フジカゲはまったくひるむ様子もなくわたしを見る。
「わかってくれるわけないじゃないですか。やっぱり帰りましょう」
「どうしたんですか? あの、サヤさんとフジカゲさんは、どういうご関係なんですか?」
「知人です」
フジカゲがジビに答えた時、わたしのカーゴパンツのポケットの中でスマートフォンが震えた。
見ると、アギンからの着信だった。わたしはフジカゲとジビから離れ、応答した。待合室にはスタンドライトがひとつだけ灯っていて、青暗い部屋の中で主張するオレンジ色がなんだか不気味だった。
「サヤ、今どこ?」
アギンの声が言った。
「えっと、ジビさんのところ」
「あれ、今日だっけ」
「わたし、今日は手伝わないよ。わたし、どこにも行かないから」
「え、なに言って――」
「あなたが人殺そうと、知らないから」
わたしの体は意思に反して震えていた。
「なに言ってんだよ」
「一人でやってね」
「サヤがなかなか帰ってこないから電話しただけだよ。俺、今家にいるよ」
「……あ、そう」
「ご飯つくっといたから、早く帰ってきてね」
「うん」
わたしは通話を切った。
「サヤさん、大丈夫ですか?」
ジビが近寄ってきた。
「なにかあったんですか?」
「だ、大丈夫です」
我ながら演技が下手だと思う。これでは全然誤魔化せている気がしない。
「アギンさんからですか?」
そう言うフジカゲの口を塞ぎたかった。
「わたし、もう帰ります」
わたしは小走りに立ち去った。薄闇の美しさが心細くて、自動タクシーに飛び乗る。自宅の住所を言った。わたしにはほかに帰る場所がない。
アギンは冷蔵庫にあったもので炒め物をつくってくれていた。それを二人で食べたあと、アギンはわたしの表情が浮かないことを感じ取ったのか、わたしを抱いた。わたしが沈んでいる時は、そうしてくれるのが常だった。
そのまま眠ってしまい、目覚めた時は午前二時だった。アギンは隣で寝息を立てている。以前はこの寝息が愛しくて、何時間でも聞いていられた。今は慣れてしまったが。
フジカゲからメールが届いていた。わたしはスマートフォンを手に起き出し、キッチンでメールを開いた。
『ジビさんに勝手に話そうとしてすみませんでした。僕は人を信頼しすぎる傾向があるようです。言い訳になってしまいますが、これも精神的治療のせいだと思います』
そんな判断まで治療のせいなら、フジカゲ本人の意思なんて、もうないということなのだろうか。そんなはずはないか。
こんなメールなんて送ってくれなくていいのに。そもそも、フジカゲとかかわってしまったことが間違いだったのではないか。わたしは十分幸せだったのに。今も幸せだ。愛する人と一緒にいられて、これ以上望むことがあるだろうか。今は、現状を維持することだけを考えればいいのではないか。
変な人にかかわってもなにもいいことなんてないのに。どうして好奇心を出してしまったのだろう。フジカゲのことは忘れるんだ。そしてアギンのことだけを考える。それが一番いい。
これが最後のメールだ。今は寝ているだろうが、関係ない。メールを送ったら連絡先を削除しよう。
『心配してくださってありがとうございました。でもアギンのことはわたしがなんとかしますので忘れてください。変な話をしてしまって申し訳ありませんでした。もう会うのも連絡するのもやめましょう。さようなら』
送信して、息をついた。多分これで大丈夫だ。多分。
連絡先を削除しようとした時、返信がきた。
『最後に一つだけ。サヤさんが帰ったあと、ジビさんと潜在意識分析装置の話を少ししました。アギンさんのことは話してません。僕なら装置からデータを取り出すことができると思います。もし気が変わったら連絡してください』
その文章の意味がよく理解できなかった。アギンさんのことは話してません。そこだけは読み取れた。だから大丈夫だ。
頭が働かない。もう一度眠ろう。アギンのウイスキーを勝手に少し飲んでみた。目は冴えたままなのに、頭はさらに休止状態になってしまい、わたしはただ椅子に座り、時が過ぎるのをいつまでも待っていた。
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