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デザインが決定したあと、初めての施術を終え、アギンに見てもらえるのを楽しみに、わたしは夕食の煮物をつくってアギンの帰りを待った。アギンは、出来上がってからのお楽しみにしようと、わたしにデザインを見せてくれない。わたしの背中に入る刺青なのに、わたし自身がデザインを知らないなんておかしな話だけれど、それがアギンとわたしの信頼のあかしなのだ。
アギンの潜在意識から生成したデザインの刺青をわたしの体に入れるというのが、アギンが「ちょっと考えてみた」結果、出てきたプランだった。
手彫りを希望したのは、完成を遅らせることで、わたしのわくわく感を増やすためだという。それに、手彫りができる彫り師なんて近いうちに絶滅してしまうかもしれないし、文化の保存のために自分の体を使うなんて素晴らしいじゃないかとアギンは言った。
だったらアギンも入れれば、とわたしは言ったが、アギンは、俺には似合わない気がする、というよくわからない理由で断った。
とにかく、わたしはアギンがわたしのことを考えてくれていることが嬉しかった。これも、わたしを安心させてくれるためなのだ。
いつも帰ってくる時間になっても、アギンは帰ってこなかった。今日はなんの用事で出かけているのかわからない。なんだか最近、こういう理由のわからない外出が増えたような気がする。
連絡を入れてみても返事がない。夕食がすっかり冷めてしまった。こんなことは滅多にないのに、どうしたのだろう。まさか事故などに遭ったんじゃ。本当に久しぶりに父のことを思い出した。父本人のことはなにも憶えていないけれど、その死因を思い出した。
スマートフォンを握りしめながら壁の時計を睨み続けた。心細くて押しつぶされそうなので、テレビをつけておく。速報の音が流れたので時計からテレビに目をやる。
『新型兵器キャウカジが我が国の領空に侵入したN国の飛行船を撃墜』
その時、玄関のドアが開く音がした。わたしは飛んでいく。
「アギン! 遅かったじゃん」
「ごめんごめん」
出かける時に着ていたジャンパーとは別のジャケットを着ている。見たことがない。
「どうしたの? そのジャケット」
「買ったんだよ。かっこよくない?」
「かっこいいけど、着て行ったやつはどうしたの?」
「制作に使ったペンキで汚れちゃったから捨てたんだ」
「そうなんだ。絵を描いたんだね」
わたしはアギンが無事に帰ってきた安堵で怒る気力をなくしてしまった。
「ご飯温め直すから少し待っててね」
「うん」
「あ、そうだ。今日ジビさんのところに行ってきたよ。めくって見てみてよ」
「おお」
アギンはわたしのTシャツの背中をめくった。
「お! ちゃんと線画になってるよ」
「いい感じ?」
「うん。いい感じだよ」
「どういう絵なの?」
「だめだよそれは。出来上がってのお楽しみだから。鏡で見ちゃだめだよ」
その楽し気な感じで、アギンがかなり気に入っているのがわかった。Tシャツを戻す。
「アギンの絵と似てるの?」
「いやーどうかな」
アギンはいたずらっぽく言う。
「明日もアトリエに行くの?」
「うーん。どっか一緒に出かけようか」
「いいね」
「どっか行きたい場所ある?」
「そうだなあ」
わたしは少し考えてから答えた。
「水が綺麗なところに行きたいな」
「水が綺麗なところ?」
「トミノ川で川下りとかは?」
「いいね。川下り好きなの?」
「ううん。一回もやったことない。でもね、テレビで見たの。トミノ川で川下りができるんだって。その川がすごく綺麗だったの」
「そっか。行こう行こう。日帰りできる距離だし」
その日は背中に保湿用のクリームが塗りたくられていたので、うつぶせで寝た。ジビのタトゥースタジオは清潔感があって、施術中はインクのにおいが強いものの、待合室などはいいにおいがするし、ジビも優しくて落ち着くので、通うのが楽しみなくらいだった。
一回目から一週間後、一人で自動タクシーに乗り、二回目の施術に行った。今日も穏やかな晴れで、スタジオに入ると、差し込む光が床に窓フレームの影と庭の噴水のきらめきを落としていて綺麗だった。
予約時間より少し早く、広い部屋に小さなソファーが距離を取って置いてある待合室に入ると、先客がいた。
前回はほかの客とは誰とも会わなかったので、今回もいないと思い込んでいたから、少し驚いた。
その人物はタトゥースタジオにはあまり似つかわしくないような地味な格好の中年男性だった。
壁にかかったデザイン画を熱心そうに見つめている。その穏やかそうなのか厳しそうなのか判断のつかない顔に見覚えがあった。待合室の入り口に立ったまま、思わずじっとその横顔を見つめてしまうと、彼がわたしを見た。
一度会ったジビとしか会わないと思っていたので、わたしはマスクをしていない。わたしの顔を初めて見た人は、普通は目を逸らすか、驚いた顔をするところだが、彼はどちらもしなかった。完全な無反応。外への力を閉ざしたような表情はピクリとも動かない。
やはりそうだ。間違うはずがない。まるで肌の質が変わったかのようで、年齢不詳な印象は薄れていたが、引き締まった体形は変わっていなかった。それほど背が高くなく、以前と同じような短く刈り込んだ髪型。
「こんにちは」
意外なことに、彼のほうから声をかけてくれた。おそらく数秒は目が合ったままだったろうから、なにか言ったほうがいいと思ったのかもしれない。
「こんにちは」
わたしは非礼を心の中だけで詫びながら会釈をした。
「……あの、あなたは調整者のかたではないですか?」
わたしの言葉に、彼は少しだけ驚いたような表情を見せた。
「元調整者です」
「すみません。わたし、あなたをパーキングエリアでお見かけしたことがあって」
その時、ジビが「サヤさん。お待たせしました」と施術室から呼びに来た。
ジビに、あの人は誰なのかと尋ねると、時間を間違えて早く来てしまったお客様だと答えた。
「いつもはほかのお客様と被らないような時間設定をしているんですが、たまにこういうこともあるんです。申し訳ありません」
ジビは道具を用意しながら言う。インクのにおいが強いが、部屋の雰囲気がいいのでそれほど気にならない。わたしは上半身裸になって施術台にうつぶせになる。この台もなるべく体に負担のかからないようになっているからありがたい。
「いや、全然いいんですけど。一時間ぐらいずっと待ってることになるんですか」
「それで構わないとおっしゃってますので。サヤさんは全然気にしなくて大丈夫ですからね」
「あ、はい。あの人は、どういう人なんですか?」
「ほかのお客様のことはお答えできませんよ」
「あ、そうですよね」
ジビはわたしの背中に麻酔薬を塗る。
「気になりますか?」
「ええ、あの、ちょっとだけ知っている人なので」
「そうなんですか」
ジビが、なにか音楽や番組を流すかと訊いてくれた。この前は適当に音楽を流してもらったが、少し迷ってから、「調整者に関する情報を探して流してくれますか?」と頼んだ。
ジビはネットでなんらかの番組を探してくれたらしく、「変えたくなったらすぐにおっしゃってくださいね」と音声を流し始めた。それから施術が始まったが、少し刺激を感じるだけでまったく痛みはない。
『新兵器の配備により、全調整者の引退が決定しました。引退した元調整者全員に、精神的治療を受けることが義務化されることも発表されました。国防省は、調整者に施された後天的遺伝子操作が精神に影響を及ぼしたという説を否定していますが、元調整者に精神的治療が施されることで、その説を認めたことになるのではないかと追及する声が上がっています。国防省は、元調整者に対する国民の不安を払拭するためだと説明していますが、追及の声はやみそうにありません』
おそらくAIのものだと思われる男性の声は続けて、警察官にも施されている軽度の調整も危険視する一般からの声も上がっているが、研究機関の公式見解では、警察官に施されている軽度調整は精神に影響を及ぼすことはないとされていることを述べた。
また、様々なマスコミが調整者に取材を申し込んでいるが、応じてくれた調整者は一人もおらず、取材に応じた数少ない調整者の家族によると、すでに精神的治療は始まっているという。
その番組が終わると、おすすめのアンビエント音楽を流してもらった。
「ちょっとさっきの番組、古かったかもしれません」
ジビが軽快な手の動きをとめずに言った。
「調整者ってみんな引退したんですね」
「そうみたいですね」
そう言うジビは、もとから知っていたような口調だった。わたしが無知ということだろうか。ほかの人はもっとニュースなどを見ているのかもしれない。彼女は続ける。
「でもよかったですよね。国のために体をいじられてかわいそうですよね」
「引退したらもとに戻るんですか?」
「そうみたいですよ」
「すっかりもと通りに?」
「もしそうじゃなかったら、すごく批判されそうですね」
「そういうものですか」
世論というものをよく知らない。批判されるとやはり困るのだろうか。
施術が終わり、次の予約を入れる時、わたしは思わずジビに尋ねた。
「あの、今日待合室に来てた人はまた来るんでしょうか」
「多分また来ていただけると思いますけど」
ジビは少し戸惑ったような笑みを浮かべる。わたしは思い切って言った。
「じゃあ……その人が次に来る前後の時間にしていただいてもいいですか?」
「かしこまりました。できるだけまた遭遇できるように調整します。連絡差し上げますね」
ジビが拒否せずにそう言ってくれてほっとした。でもわたしは正直、なにも考えていなかった。なにか訊きたいことや話したいことがあったわけではない。ただ、彼の顔が目に焼きついたのがなぜなのか気になった。話してみれば、わかるかもしれない。
待合室を通らずに出口へ行くのが通常なのだが、待合室のほうをのぞいてみた。彼はソファーに座り、目をつぶっていた。
なぜか、眠ってはいなくて目を閉じているだけだと確信できたが、声をかけることができなかった。彼が目を開ける前に立ち去らなければいけない気持ちになり、わたしは小走りに廊下を歩いて外へ出た。こんな得体の知れない気持ちになったのは初めてだった。
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