アギンは子供の頃に家族と死別していて、施設で育ったらしい。きょうだいもいないということだった。

 彼は自ら自分の話をすることはなかったが、わたしの質問に答える形で教えてくれた。彼は、家族のことはあまり憶えていないらしく、自分の生い立ちについて特にこだわりはないようだ。

 彼には陰というものがまるでなかった。家族のいない寂しさなども感じられない。

そんな彼と一緒にいると、わたしも前向きになってきた。家族のいないわたしたちは、誰にも相談しないで、自由に自分たちの将来を決められるのだと。

 アギンと一緒に暮らし始めてあっという間に半年が経った。アギンは、わたしの顔が傷だらけになってもわたしから離れたりはしなかった。嬉しそうな様子も安心が増えたような様子もないのが少し気になったけれど、そのほうがわたしは嬉しかった。支配欲が尽きていない証拠だと思ったから。

無事に治って、色素沈着した傷跡が茶色く残った自分の顔を鏡で見ると、ぎょっとすることもあったが、だんだん慣れてきた。マスクをしないで外に出ると、じろじろ見られたり、子供に泣かれたり、不躾な人にどうしたんですかと訊かれることもあったけれど、気にしないようにと自分に言い聞かせてやり過ごすことはできた。アギンと一緒に出かける時、マスクをしようとすると、どうしてマスクをするのかと尋ねてくるから、アギンと一緒の時はマスクをしない。

 アギンが現代アーティストの展示会に油絵を出品するというので一緒に街の展示場へ行った。アギンはアトリエを借りてそこに通って絵を完成させたらしい。そこに行くのは禁じられていたので、本格的なアギンの絵を見るのはそれが初めてだから、とても楽しみだった。普段はなかなか着ないジャケット姿のアギンも素敵で、隣にいられることの幸せを噛みしめた。

 さまざまな画家のたくさんの作品が展示されている中の一枚がアギンの絵だった。「どう?」といつもの上機嫌さで尋ねてくるアギンをわたしは見上げ、「綺麗だね」とうなずいた。

 でも正直、よくわからなかった。わたしには、青を基調としたいろいろな色が塗りたくられているようにしか見えなかった。なにかの形を見出そうと、後ろに下がったり近づいたりしてまじまじと見つめたけれど、なにも現れない。強いてこれがなにか現実にあるものを描いた絵だと解釈するとすれば、海か、湖だろうか。でも、水を表現したように見えなくもない青と黒と白と緑の中には、赤やピンクや橙色も混じっている。水面に反射した色というよりは、実体に織り込まれている色のように思えた。タイトルは『夢』。

明るくはっきりしていて、素直で表裏のないアギンのことだから、写実的な絵なのではないかと勝手に想像していた。わたしの絵を描いてくれているなんて思っていたわけではないけれど、わたしの理解を完全に超えた作品を前にして、わたしは不覚にも少し落胆してしまった。

なにもがっかりすることなんてないとわかってはいるのだけれど。現代アートというのはそういうものなのだろう。わたしなんかにわかるはずがない。

アギンは、絵から目を離そうとしないわたしが真剣に作品を見てくれたと思ったようで、嬉しそうだった。それでわたしも嬉しくなって、「もっと見てたいな」と気を遣って言うくらいの余裕は持てた。

アギンは、そこに来ていた画家仲間だという人たちにわたしを紹介してくれた。わたしは照れくさくてなかなか相手と目を合わせることができなかったけれど、わたしの顔に対して明らかな反応を見せた人はいなかった。みな礼儀正しく、清潔感のある男性だった。

展示を一回りして、アギンとわたしはアギンの友達たちと別れて近くのカフェへ入った。「友達にわたしを紹介してくれたの初めてだね」とわたしが言うと、「あ、そうだっけ?」とアギンはとぼけた。

「初めてだよ。なんで紹介してくれたの?」

「なんでって、別に普通のことじゃん」

 自動ワゴンが注文したアギンのアイリッシュコーヒーとわたしのカプチーノを運んできた。

「みんないい人そうだったね。さすが芸術家だね」

 わたしはまったく中身のないことを言った。

「うん。いい人たちだよ」

 アギンもふにゃふにゃした中身のない答えを返す。嫉妬されるかと思ったが大丈夫だったみたいだ。考えてみれば、アギンはわたしに指示をするけれど、それはわたしがなにか気にくわないことをしてしまったからではなく、すべて予防としてアギンから積極的に言われた。彼は嫉妬をむき出しにしたことはない。

「みんな古くからの友達なの?」

「うーん。それほどでもないかな」

「一番親しい人は誰?」

「一番多く会ってるのはリュウさんかな」

「アギンてさ、いつもデータで答えるよね」

「データ?」

「好きとか嫌いとかいうことでもさ、これは何回も食べてる、とか、これを見ると鳥肌が立つ、とか、ちゃんと理由がついて来るんだよね」

「ああ、言われてみればそうかもな。そんなことよく気がつくね」

「そりゃ気がつくよ。アギンのこと好きだもん」

 わたしは笑ってカプチーノをすすった。

 アギンは視線を下に向けた照れ笑いを見せた。目元の笑いジワが可愛くて、わたしの大好きな表情。

「あのさ」

 前から気になっていたことを訊いてみようと思った。

「アギンって、子供欲しいって思ってる?」

「え? 突然なに?」

 アギンは、伏し目だとまっすぐな目の上辺をアーチ型にして言った。この上まぶたのラインが好きだ。

「なんとなく、訊いてみたいなって思って」

「サヤはどうなの?」

「わあ、質問から逃げた」

「あんまり考えたことなかったからさ」

「そうなの? わたしはできれば欲しいなあ」

「そうなんだ」

 アギンはコーヒーをすする。カップを置いても、彼は言葉を継がなかった。

 わたしは追って質問することができなかった。

それからわたしは、アギンに言わずにピルを飲むのをやめた。しかし、わたしは妊娠しなかった。


 アギンと暮らし始めて一年が経とうとしていた時、友達との飲み会に行っていたアギンが利き手を怪我して帰ってきた。ハンカチを巻いた右手に驚いてどうしたのか尋ねると、飲み屋の階段につまずいて手をついた時に切ってしまったのだという。

 酔って失敗をしたことはそれが初めてだったので、彼でもそういうことがあるのかと意外だった。酔いつぶれているようでもなく、それほど痛そうでもなかったので、たいしたことはないのかと思ったが、黒いハンカチをはずしてみると、かなり深そうな手のひらの傷から血が染み出ていた。

 わたしは血の気が引いてしまった。その傷そのものよりも、アギンが痛い思いをしているということがわたしの血を冷やした。

 それでもわたしはなんとか冷静さを保ち、傷を消毒してガーゼを当て、包帯を巻いた。

 アギンは「このくらい大丈夫だから」と、しみるはずの消毒液を当てる瞬間もまったく反応せず、平然としていた。

「病院に行って縫ってもらったほうがいいんじゃない?」

 わたしが言っても、アギンは首を振る。

「いやいや大丈夫だよ」

「ほんとに?」

「サヤは心配性だな」

「なんでこんなに切っちゃったの? ガラスの破片でも落ちてた?」

「多分そんな感じ。暗くてよく見えなかったけど」

「しばらく絵も描けないし、ギターも弾けないね」

 好きなことができないなんてつらいだろうと胸が痛んだ。

「でも作曲はできるし、すぐ治るよ」

 アギンはわたしの顔をのぞき込む。

「なに泣きそうな顔してんだよ」

「だってさ」

「なにもできなくなっても俺にはサヤがいればいいんだよ」

「……嬉しい」

 その時は本当にそう思った。でも、幸せは消耗品。補充しないと、どんどんなくなってしまう。子供もできないし、一緒にいればいるほど、わたしが彼に本当に必要とされているのかどうか、わからなくなっていった。


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