わたしの両親が若かったころには、まだベーシックインカム制度は施行されていなかった。施行されたのは、父がレストランを経営し始めてからのことらしい。

母の話によると、父はニュージーランドに行った時にその味に感動したレストランのチェーン店化を目指していたらしく、その第一号店を切り盛りしていた。しかし、父はあっさりと事故で死んでしまった。その頃には自動運転の車がほとんどになっていたが、たまたま父のそばをビンテージ車が走っていて、たまたま父はひどく酔っぱらっていた。父のほうにも非はあったらしい。特別な理由があって飲酒していたわけではなく、もとから大酒飲みだったようだ。

 父が死んだ直後のことが、わたしの最初の記憶だ。わたしは突然この世に覚醒したかのように、その時のことをはっきりと憶えている。母はわたしの小さな体を抱きしめて泣いた。

それから、わたしの頭をなでながら言った。

「生きていると、何度もこんな思いをしなきゃいけないんだよ。でも大丈夫だからね。みんなそうなんだから」

 その時はなにもわからなかったけれど、あとからその言葉を思い返すと、「みんなそうだから大丈夫」という理屈は正しいのだろうかと疑問に思った。どうして、みんなと同じなら自分の悲しみが大丈夫になるのか、わたしにはわからない。そもそも「みんなそう」というのは、母がそう思い込んでいるだけなのではないか。自分は自分であることしかできない。「みんな」が感じていることなんて、わかるわけないんじゃないか。

 でも、母がなんとか前向きに生きようとしていることはわかった。母はレストランをたたみ、アルバイトをしたりしなかったりしながらわたしを育てた。

 母はいつも笑顔で、愚痴や弱音を一切吐かない人だった。しかしあとから考えてみると、致命的に不器用なところがあったらしい。詳しいことはわからないけれど、まともな人間関係を築くことがなかなかできなかったようだ。昔の社会だったら、もっと早くに死んでいて、わたしを産むこともなかったかもしれない。

 わたしが中学生だったある日、突然母が自殺して、わたしは人間不信になった。近所のマンションから飛び降りた母のポケットに入っていたという緻密な文字と誠意あふれる文章の遺書は、かえってわたしを傷つけた。

 もう誰も信じない。そう思っても、わたしは一人でいることに耐えられなかった。

 同性はほとんどわたしに近づいてこなかったし、わたしからも近づかなかったが、なにもしなくても、異性は望む数以上が向こうから近づいてきた。高校を卒業する頃には、男がどういう生き物なのか、全部わかった気になっていた。

 わたしは、寄ってくる男の中から、自分の好みの者を選べばよかった。わたしにとって、男の容姿や知性やお金はどうでもよかった。わたしが求めるのは、どれだけわたしを安心させてくれるか、その一点に尽きた。

 愛では安心できない。愛を疑っているわけではない。愛はそこら中にあふれている。愛があるからこの世界は残酷なのだ。相手がわたしのことを好きかどうかは、相手の目を見ればわかる。

 でも、次の瞬間には変わるかもしれない。わたしは、愛は信じていたけれど、永遠の愛は信じていない。一時の愛なんて、わたしにとっては意味がない。安心させてくれないからだ。

 支配欲だって、次の瞬間にはなくなるかもしれないではないか。そう。自分の気持ちがまったく論理的ではないことはわかっている。しかし、わたしは男の支配欲を感じると安心できた。少なくとも気がまぎれるほどには。

 アギンはわたしにとって理想の男だ。わたしは自分の運に感謝した。

 洗面所の鏡の前で、痛みに耐えながら顔の皮膚を切り刻んでいる時、調整者のことを思い出した。彼だったら、わたしと同じことをしても、切ったそばから傷がふさがっていくのだろう。あのパーキングエリアでの出来事のあと、調べて知ったのだが、調整者は、痛みも感じないらしい。血は流れるけれど、普通の人の何倍ものスピードで不足した血や細胞が生成されるようになっている。そのように体がつくり変えられているのだ。

 顔は血まみれになっていくのに、傷はひとつもできない様子を想像すると、おかしくなってきた。

「なに笑ってんの?」

 横で見守っていたアギンが笑い交じりに言った。

「いや、なんでもない」

 わたしは珍しく、思い浮かべたことをアギンから隠した。顎から血のしずくが白い洗面台に垂れた。

「まだ足りないよ」

 アギンの言葉にわたしは食い気味に返す。

「わかってるよ。まだまだ行くからね」

 ものすごく痛いけれど、なんだか楽しくなってきた。自分の限界に挑戦するゲームみたい。

「やっぱり女は痛みに強いなあ」

 アギンの物憂げな言葉に少し微笑み、わたしは縦につけた頬の傷の上に横に傷を重ねようとした。傷の上にカッターナイフの刃が重なって通過する時、人生最強の痛みに体が震えた。


 アギンが留守の間、わたしは顔面包帯ぐるぐるでどこにも出かけられないので、ただひたすらテレビを見ていた。顔を動かすと痛みがひどくなるので、ゼリー飲料しか口にできないけれど、食欲がないのでそれでよかった。チューハイを少し飲んでみたけれど、痛みが増したのでやめておいた。特にお酒好きではないから別にいい。

 わたしはAIが読み上げるニュース番組の音声をぼんやりと聞いた。昔はアナウンサーと呼ばれる人間が原稿を読んでいたらしいが、間違える可能性のある人間に公共の電波を使った情報伝達という重大な仕事を任せて、昔の人は不安ではなかったのかと思う。

 癌治療の新薬が開発されたというニュースのあとに、調整者が暴行および強制性交容疑で逮捕されたというニュースが流れた。

『――容疑者は、国防軍第二駐屯地から自家用車で帰宅する途中、帰宅途中の女子大生を車の中に引きずり込んで暴行を加えた容疑で、被害者女性からの緊急通報で現場に駆けつけた警察官に現行犯逮捕されました。調整者と呼ばれる国防軍兵士が逮捕されるのは、この一年で五件目となります。遺伝子操作研究の専門家グループは、調整者に施されている後天的遺伝子操作が精神に影響を与えている可能性があるとして、調整者制度の即時廃止を求める要望書を国防省に送付していたことを明らかにしました』

 確か、調整者制度が開始されてから二年程のはずだ。そんなに逮捕されている調整者がいるとは知らなかった。

 人権強化の観点から、兵士には科学的に与えることができる最大限の肉体強化措置が施された。考えてみれば、いくら十分な訓練を受けるといっても、ほかの人と変わることのない普通の肉体を持つ人が人々を守るために危険な任務に就くというのは、とんでもないことだ。残念なことに、世界は完全に平和になっているとは言えないし、ここ何十年かは、戦争は回避されているとはいえ、いつまたそんな事態になるかわからない。昔は、徴兵された一般人が戦争で戦ったという。想像するだけで恐ろしいことだ。

 現在、軍にいる彼らが訓練以外に具体的にどういう仕事をしているのかよく知らないが、なんとなく、調整は必要なのだろうと思っていたけれど。

 パーキングエリアでの異様な盛り上がりを思い出す。あそこにいた彼らも、本来の精神状態ではなかったということだろうか。

 そもそも本当の精神状態ってなんだろう。いや、そんなことをわたしが考えたってわかるはずがない。わたしは学歴も教養もないし、男に頼るしか能のない馬鹿なのだから。

 

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