星野瑞樹 3

 青い空を見ていると、あの子のことと、突然部屋から出され、知らないところに放り出されたことを思い出す。訳が分からないまま、気がつくと僕は今の祖母に抱きしめられていた。しわくちゃだらけの顔で、祖母は嬉しそうに呟いた。おかえり、と。そのとき初めて、僕のことを待っていて、僕の名前を呼んでくれる人がいるのだな、と思った。

 あの頃は、誰もが僕を見ていて、誰もが僕を見ていなかった。

 祖母の温かい腕に抱えられたときから、僕は僕でいよう、と決めたのだ。


 彼女が僕のことを弟を通して見ていたのだと知ったあの日から、僕は彼女と昼食を食べるのをやめた。連絡も、ブロックまではしていないけれど、全てスルーしている。僕は、彼女に大層がっかりしていたのだ。

 ほとんどの人が帰った中、僕は前日にやり忘れていた数学のプリントを進めていた。実は朝からやっていたんだけれども、要領が悪すぎて、放課後までかかってしまった。僕は理系ではない。けれど、国語も苦手。できるのは日本史や世界史、現代社会といった暗記科目ばかりで、どんどん頭でっかちな人間になってゆくのがわかる。

 文章から、物語から人の気持ちを読み取ることができない僕は、きっと欠陥品だ。僕自身が誰かの虚像であり続ける限り、僕は人間にはなれない。


「瑞樹くん」


 躊躇いがちに僕を呼ぶ声に、シャープペンシルを動かす手を止める。強ばったこの声は、相川さんだ。彼女と昼食を食べなくなってから、1週間が経っていた。


「……何?」


 顔を上げず、再び手を動かし始めながら、呟く。


「私、瑞樹くんを怒らせちゃったのかな? 連絡にも応えてくれないし、お昼ご飯も……私、謝るから。瑞樹くんが怒ってるところも直すから。だから」

「別に怒ってないよ」

「じゃあ、なんで」


 だん、と僕は立ち上がり、シャープペンシルを筆箱に、筆箱を鞄に仕舞い、背負った。歪んだ椅子を元に戻し、出来上がったプリントを手に取って、一歩踏み出す。僕はそこで、初めて彼女の顔を見た。


「僕を神様扱いするな!」


 そう叫んで、僕は乱暴に教室の戸を開け、外に出た。

 戸を閉める直前に見た彼女の顔は悲しげで、ざまあみろ、と思ったけれど、すぐに後悔の念が胸に広がった。訳の分からないことを言ってしまった自覚はあるし、何より教室にはまだ他のクラスメイトがいた。いつも変な目で見られているのに、また僕は奇妙な生き物になってしまう。嗚呼、なんて憂鬱な。

 靴を履き替え、正門から出る。そういえば、最近不審者が出ている、と朝礼で聞いた気がする。1人で帰らないように、と言われたけれど、僕にはもう友だちなんかいないから、一緒に帰る人もいない。


「はい、どうぞ」


 ふと、そんな声と共に、僕の目の前に何か紙のようなものが差し出された。塾の勧誘だろうか、と顔を上げると、帽子を目深に被った、いかにも怪しいです、といった人物がいた。

 こういった勧誘のチラシは受け取らないことに決めているので、僕は申し訳程度にお辞儀をしてから、歩き出そうとする。


「まあまあ。そんな風に無視しないで受け取ってよ」


 くすくす、と笑いながら、その人物は僕の手に無理やりチラシを握らせた。

 仕方なくそれを手に取ると、目にばっ、と青が飛び込んできた。手描きのものを印刷したのだろう。妙に画力が高い。素直に感心していると、中心に描かれている天使に目が惹き付けられた。なんだこれ。まるで──


「まるで、僕みたい。そう思ったでしょ?」


 僕の心の声をそっくりそのまま声に出して、その人物は笑った。はははははははははははははははははははははははは、といつ呼吸をしているのか分からないほど長く笑い続けた。

 やがて、夢から醒めたようにその人物は笑うのを止め、呆然と立ち尽くす僕を見て、フン、と鼻を鳴らし、つまらなさそうに帽子を外した。

 金の髪が風に揺れる。帽子に隠れていた顔立ちは酷く整っていて、真っ白な肌が眩しい。そして、彼女は澄み渡るような青い空の瞳をしていた。

 その顔に、僕は見覚えがあった。錆び付いて動かなくなった脳を必死に回転させる。どれもこれもキャラメル色の瞳ばかりで、彼女の瞳に当てはまる色が見当たらない。でも、その顔には確かに見覚えがあった。

 混乱している僕を見て、また面白くなってきたのか、彼女は僕の瞳を覗き込み、くしゃりと顔を歪めて呟いた。


「嗚呼。やっぱり、神様の瞳はとっても綺麗ですね」


 ぱりん、と僕の頭の中で、何かが割れる音がした。バラバラになったそれらをもう一度組み合わせて、記憶を再構築してゆく。キャラメル色の瞳の中に、闇で塗り固めたような光の無い瞳を見つけた。僕の、ともだち。僕の目を抉ろうとした。


「明日。あの場所に来て。じゃないと、私は死ぬ」


 くるり、と踵を返して、彼女は僕の元を去ってゆく。その遠くなってゆく後ろ姿を、僕は何も出来ずに見送った。

 絵の中の天使は、青い花に囲まれ、幸せそうに眠っていた。

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