相川みお 3

 弟のことを、私はまだ鮮明に思い出すことができる。長い睫毛と、少し色素の薄い髪。天使のような子だった。まるで、瑞樹くんみたいな。

 手術の成功率は*%だ、と言われた。あの頃の私にはそれがどれくらいの確率なのかわからなかったけど、今ならそれが決して高くはない数字であることは理解できる。それでも、その手術を成功させることが、いつも仕事ばかりで家に帰って来ず、何もかもを母に任せっきりだった父の、せめてもの役割だと思っていた。

 そして手術は失敗した。私の父は、人殺しだ。







「親はいないよ」


 その言葉を聞いたとき、私はその質問をしてしまったことを心底後悔した。彼の親がどんな顔をしていたのか聞いてみたい、という自分勝手な欲望だけで、彼の心の奥に踏み込むのは失礼なことだというのに。


「……なんかごめんね」

「謝る必要なんてないよ。君もお父さん、いないんでしょ?」

「うん。でも、離婚しただけだから、まだ生きてるよ。……もう二度と会わないつもりだけど」

「はははっ、それじゃあ死んだも同然だよ」


 お揃いお揃い、と笑いながら、彼はメロンパンを頬張った。


「といっても、僕はお父さんって存在は知らなかったな。母の顔は朧気だけど、僕の記憶の中に存在はしてる。でも、父の記憶は欠片もない。もしかしたら、僕がうんと小さいときに死んだのかもね」


 彼の顔に哀愁はない。あるとすれば、パンくずだけだ。まるで小さな子どものようで微笑ましくて、私は思わず彼の顔に手を伸ばして、そのパンくずをひょいっ、と盗み取った。すべすべだな、と感じたときにはもう遅く、彼はきょとん、とした表情で私を見つめており。途端に仕出かした行為が頭の中で文字になり、私はぼっ、と頭から沸騰した。


「ごごごごごごめんなさい!」

「……びっくりしたけど、別にいいよ」


 彼は気にしてないよ、とひらひらと手を振る。


「それに、ちょっと嬉しかったし」

「えっ」


 少し照れた様子で口元を掻く、レアな美少年が私の目に飛び込んできた。眩しい。


「姉がいたら、こんな感じかなって思って」


 その言葉に、私は押し黙った。ぎゅっ、と胸の奥が締め付けられた。

 記憶の中の私の弟は幼くて、よく口周りに何かしら食べ物をつけていた。私はそれを、忙しい母の代わりに取り除いてやっていた。先程の行動も、完全にその名残だった。


「……私ね、弟がいたんだ」

「へぇ。いいな」

「死んじゃったけど」


 彼は少し目を見開いて、うん、と頷いた。大体、弟の話をし始めると、人は「それは残念だったね」とか「可哀想に」なんていう慰めの言葉をかけてくるものだ。父のこともそうだったけど、彼は私の思い出を、過去を、悲しいものとして扱ったりしない。それは、人によってはとても失礼な態度と受け取られることもあるだろうけど、私には素晴らしい美点のように思えた。今も、彼はメロンパンを膝に置いて、私の言葉を神妙に待ち構えているだけだ。


「瑞樹くん、初めて会ったとき、何で僕を助けるのって聞いてきたよね?」

「うん」

「あのときは、人を助けるのに理由はいらないって言った。だけど、それだけじゃなかった」

「……何?」


 身を起こし、すうっ、と息を吸った。


「……瑞樹くんが、弟に似てたから」


 彼は、静かな瞳で私を見つめている。顔立ちも、元の髪色も、年齢だって違うのに、見れば見るほど、瑞樹くんは私の弟に似ている。


「……なるほどね。だから君は僕を助けてくれたのか」

「うん。でも、純粋に、困っている人を助けたかったからっていうのもあった」


 その気持ちも、本当だから。


「ありがとうね」


 ふっ、と唇を緩めて、彼は呟く。


「でも、何かを通して僕を見るな」


 ぐしゃり、といつの間にか無くなっていたメロンパンの袋を握り潰して、彼は押し黙った。そのまま、彼はクリームパンを取り出し、また頬張り始めた。

 

 その日以降、私たちが中庭で一緒に昼食を食べることはなかった。

 






「ただいま」

「……」


 重苦しい気持ちで帰宅すると、母がリビングで呆然としていた。まるで人形のように固まってしまっている。


「どうかしたの?」

「……これ見て」


 震える手で差し出されたのは、チラシだった。全体的に青っぽい印象で、中心には金髪碧眼の天使が描かれている。少し、瑞樹くんに似ている気がした。


「これがどうしたの?」


 はぁ、と真っ白な顔で母はため息をつく。


「あの人が送ってきたのよ。話したいことが、あるらしいわ」


 今度は私が呆然とする番だった。思わず力が抜けて、チラシがフローリングの床にはらり、と落ちる。

 そのチラシの隅には、「聖花会」、という文字があった。

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