生と死の間の猫たち

Takeman

生と死の間の猫たち

「わたし、生きているのかしら」


 そうつぶやいた織乃の言葉で、功太郎は織乃は在世感消失症候群に罹ってしまったのだろうかと思った。とっさにそう思ったのは昨日の夜にたまたまつけていたテレビで在世感消失症候群についての特集をやっていたからだった。

 とはいえども彼女のたった一言だけで判断できるものでもない。ここのところ仕事が忙しかったようなので、いろいろと疲れがたまって、気力が失われてしまっているだけなのかもしれないと考えなおした。

 お互いの休日のスケジュールがなかなか合わず、電話やSNSでは話をしていたが、実際にこうして合うことができたのは一ヶ月ぶりのことだった。

 そして予約していたレストランでワインを一口飲んだあと、織乃はそうつぶやいた。

 功太郎はあらためて織乃の顔色を確かめたが店内の少し暗めの明かりのなかでは顔色だけでは具合はわからなかった。

「なにかあったのかい」

と尋ねる功太郎の言葉に、少し考え込んだあとで「今朝からなんだかおかしいの。生きているっていう実感がなんだかなくって」と答える。

 ──たしか、昨日の番組では最初に感じるのは生きているという実感の喪失とか言っていなかったか。

 こんなことならばもっと真剣に観ておくべきだったと後悔するのだが、いっぽうで、在世感消失症候群はどこか遠くの世界の出来事で自分の周りで起こるとは思わないのが世間一般の人たちの有り様で、功太郎もそのひとりだった。

 在世感消失症候群は数年ほど前から症例として報告されるようになった新しい病気だった。最初は現実感消失症あるいは現実感喪失症候群として診断されたのだが、いかなる薬物療法も効果がなく、薬物を用いない認知行動療法や森田療法といった療法も効果がなかった。そしてもちろんのことだがそれ以外の精神病に関する代替医療もまったく効果がなかった。

 いかなる治療手段も効果のないこの症状を訴える人々は世界各地で現れ、その数はわずかながらも日々増加していったた。そのため治癒することもなく、患者数だけが増大していくことにより精神科医療はそのキャパシティ不足から崩壊するかと思われたのだが、それが回避できたのはこの症状を訴える人たちが病院に通院したとしても数回通院しただけで継続的な治療を止めてしまうことによるものだった。


 織乃はバッグからパンフレットのようなものをとりだしてテーブルの上においた。

「Schrodinger's cats(シュレーディンガーの猫たち)という団体があるの」

 テーブルの上に置かれたのはパンフレットで表紙にSchrodinger's catsという文字が書かれていた。そのパンフレットを手に取りながら「なんだいそれは」と尋ねる。

「わたしたちのような人たちの集まりなのよ。アメリカで生まれた団体なんだけど、その支部が日本にもあるの。わたしこんどそこに行ってみようかと思ってるんだけど」

「ふーん、で、なにをするところなんだい、そこは」とパンフレットを開きながら聞く。

「詳しいことはそのパンフレットをみてもらえればわかると思うんだけど、わたしもちょっと書いてあることが難しすぎてわからない部分があるのよ。功太郎なら詳しいとおもって」

「うーん、聞いたことない団体だなあ。知らないから説明できないと思うんだけど」

「ううん、聞きたいのはそうじゃなくって、というかそこの団体は単なる集まりじゃなくって在世感消失症候群について、なんか理論的な説明をしてるのよ。量子力学とかなんとかって難しい言葉を使って。功太郎って大学で物理を専攻してたでしょ」

「いや、専攻してたっていってもねえ、いまはしがないサラリーマンだし」

「まあでもちょっと読んでみてよ。そのパンフレットに書いてあるから」

「量子力学ってなんだか胡散臭そうだなあ。止めたら」

「入るかどうかは行ってみて決めるわ。別にあやしげな新興宗教じゃなさそうだし」

「じゃあ、とりあえずそのパンフレットを読んで、僕なりに調べてみるよ」


 Schrodinger's catsは在世感消失症候群をかかえた当事者の共同体です。

 その活動の多くはネット上で行われています。

 Schrodinger's catsは20XX年、イギリスのカーリン・シャーリィが在世感消失症候群になったことではじめた活動がもとになっています。

 カーリン・シャーリィが行った活動に関してはこのパンフレットの3ページ目に書かれています。

 共同体への参加は自由で強制するものではありません。また、参加したあとで共同体から離れるのも自由です。

 参加するにあたっての費用も必要ありませんが活動のための募金は行っておりますので可能な範囲で寄付していただければありがたくおもいます。


 この世界のあらゆるものは細かく細分していくと量子という非常に小さなエネルギーの単位になります。この量子の世界ではさまざまな状態を重ね合わせることができるのです。

 たとえば海は海水ですが、この海には波があります。海水は物質ですが、波は物質ではなく海水の状態を表しています。

 しかし、量子の小さな世界では状態(波)しかありません。この状態しかない世界では不思議なことが起こります。


 一個の箱を用意します。この箱の中に1時間後に分裂して50%の確率で一個の電子を放出する核物質を入れます。さらに電子を検出すると毒ガスを放出する装置も入れます。

 最後にこの箱の中に一匹の猫を入れて蓋を閉じます。

 そして1時間経ちました。電子は50%の確率で放出されています。箱の中の猫は50%の確率で死んでいることになります。生きているか死んでいるか、それは蓋を開けてみればわかることですが、蓋を開けないままの状態だったとき、箱の中の猫はどうなっているのでしょうか。この箱の中の世界が量子の世界だった場合、箱の中の猫は生きていると同時に死んでいるという2つの状態が重ね合わさったままになっているのです。これは蓋を開けるまでその状態が続きます。生きているのか死んでいるのかは蓋をあけて観測してみるまで重なり合ったままなのです。そして蓋を開けて観測した瞬間、50%の確率で猫は死ぬか生きるかが決定されます。

 生きているのか死んでいるのか、その実感が喪失してしまう在世感消失症候群はこの箱の中の猫なのです。生きている状態と死んでいる状態が重なり合っているために実感が喪失してしまうのです。


 先程の箱の中の猫の話はシュレーディンガーの猫という思考実験の話でした。

 シュレーディンガーの猫は観測されることではじめてどちらかの状態に決定されます。

 わたしたちはまだ観測されていないのです。

 Schrodinger's catsはわたしたちが観測されることではじめて自分自身を取り戻すための行動を模索しつづけています。


「なんだこれは」というのが読み終えての功太郎の言葉だった。もちろん、読んでいる途中でもおかしいと思いながら読んでいたのだが、それでも最後の最後までその状態が続くとはおもっていなかった。

 生きている状態と死んでいる状態が重なり合ってしまったから在世感消失症候群となったなんてできの悪いSFでもあるまいし。

しかし、そういった理屈付けの部分はさておいて、在世感消失症候群がいまの医学、いや科学では説明できない部分にその原因があるというのはずいぶんと怪しい。こんな怪しい説明で納得してこの団体に参加する人間がいるとは思えなかったのだが、しかし現実的にはこの団体はその規模を大きくしていた。

 問題はこれを織乃にどうやってわかりやすく説明したらいいのかという点だった。

 多分無理だ。

 わかりやすく説明するのは諦めて、正しい部分はあるけれどもそれはここに書かれていることには結びつかないと説明するほうがいいのか、それともシュレーディンガーの猫の話そのものが現実にあることではなく思考実験でしかなくそのまま現実には当てはめることはできないと説明したほうがいいのだろうか。

 そう考えながらも多分どんな説明をしても無理なんだろうという予感がした。


「読んでみたけれども、織乃はどの部分がよくわからなかったんだい」と功太郎は聞くことにした。

「功太郎はどう思った」織乃は逆に功太郎に問い返してくる。

「シュレーディンガーの猫の話はたしかにそのとおりだけれど、あれはあくまで思考実験なんだ。つまり現実的にはありえないけれども、ありえるものとして考えてみるということで、だから箱の中の猫は生きている状態と死んでいる状態が重ね合わさっているというのはありえない」

「でもわからないじゃない? 箱の中がどうなっているかなんて開けてみなければわからないでしょ」

「いや、そうじゃなくって、実際に自分が箱の中に入ったと思ってみれば想像できるじゃないか」

「自分がそうだからそう思うんじゃないの」と織乃は口調を尖らしていう。「今の私は生きているけれどもその実感がないの。これって死んでいるのと同じでしょ。猫とおんなじよ。私は」

──ああ、そうか。そうだったんだ。

「功太郎はシュレーディンガーの猫なんてありえないっていうけど、私はどうなの。実際に存在してるんじゃないの」

「でもそれはシュレーディンガーの猫と同じとはいえないんじゃないか、いまのところは」

「ほかにどんな理由があるっていうの。私の状態をうまく説明してくれているのはここだけなのよ」

「──そうだね。そうかもしれない」

「なんか、もういい。今度の休みの日に実際に行ってみる」

「僕も一緒に行くよ」

「いい、一人で行くから」


 慌ただしい日々が続いていた。

 功太郎の仕事が忙しかったせいであれ以来、織乃とゆっくりと合う機会を持つことができなかった。たまに合う機会ができても軽く食事をする程度で、Schrodinger's catsはもちろんのこと在世消失症候群のことについても話すことがなかった。

 お互いにそのことについて触れたくはないという気持ちもあった。

 そうはいっても功太郎としては織乃のことは心配で在世感消失症候群が生死にかかわる病気ではないとはいえ、つらい思いをしている織乃の力になりたいと思っていた。いっそのこと自分も在世感消失症候群になってしまえばいいのになと思うことさえある。

 同じ境遇になればお互いに分け隔てなく遠慮せずに話すことができるのかもしれない。


 あれからSchrodinger's catsの活動を調べたことがある。参加している人数は増えていっているようだ。しかし症状が良くなったという話は耳にしたことはない。そういった話は外部からは知りようもなかった。ひょっとしたら良くなった人もいるのかもしれないが、もし、Schrodinger's catsが考えていることが正しかったとしたら、それがうまくいったのであればSchrodinger's catsの活動はすこしずつその規模を縮小していっているはずだった。でも現実にはそうなっていない。だからまだ彼らの行動はうまくいっていないのだろう。

 だいいち、在世感消失症候群が生きている状態と死んでいる状態が重なり合った状況になってしまうという現象であるなんてにわかには信じられない。

 でもそれは僕が在世感消失症候群ではないからなのかもしれなかった。在世感消失症候群に罹ってしまった人たちからすれば罹っていない人たちとは見る世界そのものが異なっているのだろう。

 だから織乃はあのとき、ああ言ったのだ。

「あなたはいつだって私のことを理解してくれなかった」

 でも僕は僕なりに織乃のことを理解しようとしていたし、理解できていた部分もあったと思う。

 それでもそれは一方通行でしかなく、相手のことを理解したということはその相手が自分のことを理解してくれたと認識してくれなければ本当に理解したことにはならないのだろう。

 その点でいえばSchrodinger's catsの言っていることは正しい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生と死の間の猫たち Takeman @Takeman

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ