第11話 江口 ―えぐち―

 墨染すみぞめころもがしとどにれ、網代笠あじろがさの端からもぽたりぽたりと雫が落ちる。


「雨だなあ」

「雨ですね」


 江口えぐちにさしかかった時、急に振り出した雨を避けようと軒先のきさきを借りた。その部屋の中から女が応える。


「……よく降るなあ」

「よく降りますね」


 降り続く雨は、会話が聞こえなくなるほど強くはない。だが、いつまでも止む気配がない。

 さすがに冷えたのだろう。ふるりと体を震わせ、旅の僧は部屋の中へ視線を投げかけた。


「ちょーっと中に入れてくんないかな」

「無理です」


 笠の中から白いため息をこぼし、和歌うたむ。


世の中をよのなかを いとふまでこそいとうまでこそ かたからめかたからめ かりの宿りをかりのやどりを おしむ君かなおしむ きみかな


 部屋の中から、ふんっと鼻息がもれ和歌うたが返る。


世をいとふよをいとう 人としきけばひととし きけば かりの宿にかりのやどに 心とむなとこころ とむなと 思ふばかりぞおもうばかりぞ


「そんな和歌わかで返されたって知らんがな!」

「あんたが和歌わかで言ってくるからでしょうが!」


「現代語訳!」

「そっちこそ!」


 一呼吸ひとこきゅうおいて、表情が消えた僧の口から(誰かの)耳に馴染なじんだ言葉がつむがれた。


「世の中をいと出家しゅっけするのは難しいことだけれど、貴女あなたは仮の宿を貸すのさえ難しいと惜しむのか」

「ご出家の身とうかがったので、こんな仮の世の、まして遊女ゆうじょの宿になど、お心を留められぬようにと思っただけです」


 同じような表情で遊女が答える。

 静寂は一瞬と保たず、先ほどの応酬が再開された。


「ケチ!」

「坊主のくせに!」


「別に一家ひとつやで遊女と寝たいとか言ってないだろう!」

芭蕉ばしょうだって、お前らついてくんなって断ったでしょう!」


 そこに、みっしりとした気配が入り込む。


「はいはいはいはい、そ・こ・ま・で・よ」


 二人の間に割って入った、むっちりと張りのある大胸筋。


西行さいぎょうちゃんも、おたえちゃんもそのくらいにしときなさいな」


 三角筋さんかくきんから上腕二頭筋じょうわんにとうきんにかけて、もりもりと盛り上がっているが声音は優しい。


「だってこの人が」

「だってこの坊主が」


 振り向いた二人が叫んだ。


「泊めてくれないから!」

「出家した人を泊めてどうすんのよ! あんたが泊まったら他のお客さんが来られないじゃない!」


 二人の目の前で腕橈骨筋わんとうこつきんが、ああん♡と丸太のように振り回される。


「やあだ、もう。新古今和歌集が泣くわよぉ」


 部屋の内と外でのにらみ合いをいなすように、大臀筋だいでんきんがぷりんと動いた。


「ほらほら、二人ともそんな風にがるがる言ってないで」


 この鍛え上げられた筋肉群きんにくぐんを仮に普賢菩薩ふげんぼさつと呼ぶことにする。

 の筋肉が何故なにゆえこうも主張するのか。

 それは薄い僧衣そういしかまとっていないからである。そりゃあもう、あっちもこっちも衣を通してバッキバキに、我こそは筋肉! と主張するからなのである。


「ここはアタシがおごるわ。入ってらっしゃいよ、西行ちゃん。おたえちゃんもいいわね」

「菩薩様がおっしゃるなら、あたしはいいですけど」


 今度はたえがため息をこぼす番だった。


「しょうがない。入ってくださいな、お坊様」


 衣をまつわりつかせた大腿筋だいたいきんがみちみちと動き、西行を迎えに出る。

 中に入るや、シャランラと音がしそうな光が体を包み、西行はねずみから人に戻った。


「ね、これならお部屋も濡れないし、いいでしょ」

「ありがとうございます。お世話になります」

「あらぁ、いいのよぉ」


 眼瞼筋がんけんきんがパチリと動き、西行に笑いかける。

 菩薩は振り返るとたえ白湯さゆを持ってくるように言った。


「ささ、どうぞ座って。西行ちゃんも四天王寺してんのうじ行ったばっかなんでしょ」

「はい! 素晴らしい所でした。何度焼けても再建されたのはそれだけ人々の尊崇そんすうを集めているからなのでしょう。弘法大師こうぼうだいし様も参籠さんろうされたのですよね。未熟な私はまだ仏の真髄しんずいおさるまでには程遠いのですが、西門で日想観にっそうかんをさせていただきました」

「うんうん、よかったわねえ」


 やはり推し語りは早口になるものらしい。

 西行のそれを菩薩はにこにこと聞いている。


「これを機会に弘法大師様の跡を追ってみようかと思っています」

「あらぁ、大丈夫? あの子結構きっついとこ行ってるわよ」

「……がんばります。尊敬するあの方が何を見たのか、何を感じたのか、私もそこへ行って考えてみたいと思います」


 ちょうどそこへたえが戻ってきた。

 どうぞ、とぜんが差し出される。


「遅くなってすみません。少しですが食べ物も用意しました。召し上がってください」

「いいのか? さっきまで、あんなに言っていたのに」

「菩薩様に宿代いただいてるのに、もてなしもしないのはどうかと思っただけよ」


 照れているのか、不貞腐ふてくされた口調が可愛らしい。


「すまなかった。さっきは雨に濡れて寒かったし、腹も減って気が立ってたんだ。出家したというのに情けない事だった」

「やだ、そんな殊勝なこと言われたら困るわ」


 わだかまりが解ければ、なんということもない。即妙に和歌のやり取りをしたのも互いに気に入ったようだ。

 間に入る菩薩の合いの手が絶妙なこともあって、食も会話も進む。

 やがて西行のまぶたは、とろりと重くなってきた。


「西行ちゃんお疲れね、横になったら?」

「いや、これだけ良くしていただいてさすがにそれは。少し休んだら出立しますので……」


 そう言いながらも、ゆらりゆらりと船をぐ。

 いつの間にか西行の体はし、寝息を立てていた。


「やっぱりお疲れねえ、寝ちゃったわ」

「そうですね」


 苦笑しながらたえは寝ている西行に着物をかけた。


「菩薩様」

「なあに?」

「出家するのも悪くないかもしれませんね」


 菩薩は小首を傾げ、先をと促す。


「もう昔の華やかな暮らしを思い出すことも少なくなりました。訪れては別れる人を見送り、来ない人を待つ遊女の暮らしもなんだか疲れてしまって」


 いつの間にか雨は止み、煌々こうこうと月が輝いている。


「心に波が立つと苦しい。それは迷っているから、惜しむ心があるからなんですね。流れる川のように心を留めずにいられたら」

「ふふっ、西行ちゃんよりお坊様みたいなことを言うのね」


 妙は驚いたように目を見張り、そうでしょうかと困ったように笑った。

 菩薩はそんなたえに静かに語りかける。


「風に吹き散らされる春の花や、枯れ落ちる秋の林。確かに変わりゆく世界は移ろいやすい人の心と同じだわ」


 でもね、と菩薩は空を仰ぐ。


「今も昔も月は変わらず輝いている。全ては同じ世界の姿なのよ」


 菩薩の言葉につられるようにたえも空に目を向ける。耀く月は何も言ってはくれないが、何かをたえの心に届けてくれた気がした。


「さ、おたえちゃんも少し休んだほうがいいわ。ここはアタシが見てるから」

「はい……ありがとう……ございます……」


 急に眠気が差したらしいたえがその場に崩れ落ちる。

 二人分の安らかな寝息を聞き、菩薩は柔らかに笑みを浮かべる。すうっと上げられた手の、その指からパチンと音がした。




「もし、お坊様」

「……んん……」

「お坊様、起きてください。こんな所でお休みになられては風邪を引かれますよ」


 寺男てらおとこに肩を揺すられ、西行が目覚めたのは四天王寺だった。


「江口まで行ったはずなんだが、なぜここに……」


 きょろきょろと辺りを見回し、当惑して首をひねる。


「夢……だったのだろうか」

「あのう、大丈夫ですか?」


 はた、と我に返り、西行は男に手を合わせた。


「ご心配おかけしてすみません。大丈夫です」


 ほっと胸をなで下ろし男は去っていった。

 

「まあ夢でもいいか。いつの日も太陽は昇る。私はまたここから仏の道を進もう」


 朝日を浴びて西行は歩き出す。

 と、不意に何かに気づいたように足を止め独りごちた。


「夢でなければ、いつか会えるかもしれんな」


 西行の去った後、かすかに残った女物のこうが風にさらわれていった。

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風姿花伝 偽の巻 kiri @kirisyu

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