第10話 松虫 ―まつむし―

 すすきを花瓶に差し、団子の横に供える。

 今日の月は一段と艶やかで美しい。


 看板にを入れようと外へ出ると、リリリリと虫の鳴く声がした。

 よう、と手を上げた男がこちらへ向かってくる。


「いらっしゃいませ」


 このところ毎日のように店に来てくれる客のひとりだ。


「もう開いてんのかい?」

「ええ、どうぞ」


 いつもどこからともなく来て酒を飲んで行くこの男に、今日こそは名を訪ねてみようかなどと思っている。


「へえ、芒に団子かい。そういや、中秋の名月ってやつだったか」

「すみません、今夜は月の光を入れたくて。ご迷惑ならブラインド下ろしますが」

「いや、これでいい」


 バーというにはいささか開放的な作りの店舗。買った時も不動産屋に嫌味を言われた。

 売れれば文句はないだろうにバーには向かないとわざわざ言ってきたのは、ある意味とても親切な人だったのかもしれない。

 まあ、ひなにもこんな変わった店がひとつくらいあったっていいだろう。


「ここは俺みたいな者には、きやすくていい」


 スツールに腰かけながら呟いた客は何かわけありというやつなのだろうか。いや、そんな詮索は野暮というものだな。

 いつものようにバーボンを出しかけて、私はふと手を止めた。

 

「日本酒はお嫌いですか?」

「バーで日本酒かい。珍しいな」


 嫌いじゃないという男にホッと胸をなでおろし試飲を勧めてみる。


「いいのが手に入ったんですよ。月見には酒が合うかと思いまして。よろしければどうぞ」

「へえ、うまいな」


 それでは、と特利とくりさかづきを盆に乗せて差し出した。

 リ、リリと松虫の声が入り込む。


「もとの秋をも松虫の、音にもや友を偲ぶらん、か」

「『古今和歌集こきんわかしゅう』ですか?」

「よく知ってんな」

「これでも文学青年ってやつでしたので」


 男は盃を傾ける。


「こんな日なら、あいつも会いに来てくれるんじゃないかってな」


 寂しさが男の顔を過ぎる。

 なかなか会えない人のだな。ならば、待つのはことさらに思いが募るのだろう。


「この辺りにはなあ、昔から伝わってる和歌うたがあるんだよ」

「和歌ですか」


秋の野にあきののに 人まつ虫のひとまつむしの 声すなりこえすなり 我かと行きてわれかとゆきて いざとぶらはむいざとぶらわん


「初めて聞きました。あ、ということはお客様もこの辺りに長く住んでらっしゃるんですね」

「まあな。実は松虫の音に惹かれて草むらに入っていった、っていう和歌には続きがあってな。行ったきり帰ってこなくて、心配した友人が後を追ってみたら草の上で死んでたんだ」

「それは……なんとも悲しい結末ですね。草むらに入っていった人も友人も無念だったでしょう」


 私は小さく念仏を呟いた。


「なんで念仏なんか……」


 男の口からぽつりとこぼれ出る。


「ああ、すみません。『いざとぶらはむ』っていう結びだったので」

「本当に文学青年だな」


 私は少し怒ったような顔をしてみせる。


「私はこれでも少しばかり本気で祈ったのですが」


 そう言うと男は目を見開き、破顔一笑はがんいっしょう


「そう言ってくれる人がいるなら、成仏できるなあ」


 微妙に引っかかる言い方をした男は、ぐいっと酒を喉に流し込む。


「なあ、マスター」


 ことり、と盃が置かれる。


「俺がもう死んでるって言ったら信じるかい」


 なんだって? いやいや、それはないだろう。

 鍛えられた胸筋や腕の太さはそんなはかな妄言もうげんとは無縁だろうに。それにあなたのように整った顔なら、さぞ人生を謳歌おうかできるだろう? ああ、これは私のひがみか。

 そもそも、あなたには触れるし飲んだ酒は減ってるではないか。


「そんな怖い冗談言わないでくださいよ」

「ははは……そうだな」


 松虫が鳴く。リリ、リリリリ。


「君みたいにごつい男じゃ、そりゃ信じられないよねえ」


 ほのかな香と声が、私と男の間に入り込んだ。


「いいもの飲んでるじゃないか」


 客がもうひとり増えていた。


「おま……お前!」


 男が言ったきり言葉を失った。

 私も入ってきたことに気づかなかった。しまった、これでは店長失格だな。


「……い、いらっしゃいませ」


 慌てて送った来店の挨拶に、その客はいいんだ、というように手を上げる。

 気配のうすい、いや……儚い、か。そう、優しげだが儚い感じがする。


「久しぶりだね」


 その上げられた手は、そのままカウンター席の男の肩に回された。

 もしや彼が男の待ち人なのか。

 男の前に置かれた盆の上で、持ち上げられずに転がった盃から酒が零れた。


「僕にも同じのくれるかい?」


 その声でようやく我に返った。


「あの……よろしければあちらのお席はいかがですか」


 動揺を取り繕うように、芒を供えた窓辺の席を指す。


「あそこからの月が一番良く見えます」

「いいねえ、ほらほら立って」


 新たな若い客は男をせき立てる。


「あ、ああ」


 後から来た若い男に手を引かれ、男はテーブル席へと移っていった。


 席についた二人に特利をふたつ並べて置く。それぞれの前には小さな盆に盃と肴。

 私はごゆっくりどうぞ、と下がった。


 おそらく念願の再会を果たしたであろう男と、儚げで優しい顔立ちの若い客。

 男の冗談と若い客の様子が私の胸をざわつかせる。二人が知らぬ間にこの世から消えてしまいそうで。

 あの席は月もよく見えるが、私からもよく見える。私は目を離したくなかったのだ。


「ふふっ、御神酒徳利おみきどっくりみたいでいいねえ。昔は僕らもそう言われてたっけ」


 ああ、やはり仲の良いふたりだったのだな。


「ねえ、まだ弾いてんの?」

「……趣味の範囲だけどな」

「そっか」


 嬉しそうに笑う若い男は、また酒をつぐ。


「あの頃は楽しかったねえ」

「ああ……そうだな」

「馬鹿みたいに飲んで講義に出られなかったり」

「演奏のタイミングが合わなくて喧嘩したりな」


 ぎこちなかったふたりの雰囲気が少しずつ柔らかくなる。

 静かな笑いが弾けて広がった。


「そうそう、覚えてる? 実はさ……」


 心通わせた日々を楽しげに語る二人。

 それが詩を論じる得業生とくごうしょうにも見えてきて、私は目をしばたたかせた。奈良、平安の時代は遙か昔だというのに。


 花下忘歸因美景花のもとに帰らんことを忘るるは美景によってなり

 樽前勸酒是春風そん の前に酒をすすむるはこれ春の風


 酒を酌み交わし、これからの進むべき道を語り合う。

 白楽天はくらくてんが友人と共に酒を飲んだのは春の頃だったが、今の季節でも友人に会える嬉しい気持ちは同じだろう。


 狩衣かりぎぬ姿の二人の間に音曲おんぎょくが流れる。ふえ琵琶びわおとうたいが聞こえてくる。

 ああ、千年前からずっとこうしているような気がしてきた。


「ああ、お前と飲む酒はうまいな」

「菊の露にも負けない?」

「長生きは俺らに似合わんだろ」

「ふふ、やっぱり君と話すのは楽しいねえ」

虎渓こけいも通り過ぎてしまう、ってか?」


 二人の声に、リリ、と松虫が合わせて鳴く。


「……あの時はほんのれのつもりだったんだ。運の悪いことに発作を起こしてしまってね」

「そうだったのか。なら、なおさら草露の中に入るなんて駄目だろう」

「あはっ、でも松虫がホントいい声で鳴いてたから」


 どういう……?


「俺は本当に悲しかったんだぞ」

「うん」

「嘆いて嘆いて、お前の後を追ってしまった」

「うん」

「一緒に埋められたのは嬉しかったが、和歌ばかりが世に伝えられて供養もされなかった。だが今日はそれも叶った」

「うん」


 あの和歌のことなのか?

 まさか本当に、自分たちがこの世のものではないと?


「マスター」


 思いの中にいた私を客が呼ぶ。


「僕ら、そろそろ帰るよ」


 若い客が言う。儚げに優しげに。


「あ……はい、ありがとうございました」

「礼を言うのはこっちだ。ありがとう」


 男が言う。少し照れくさそうに。

 ドアを開けると夜を覆い尽くすほどの松虫の声。


「また会いに来るよ。待っててくれる?」

「ああ」


 言い交わした二人は私を見て同じことを言った。


「また来ていいかな。ここは酒がうまい」


 松虫が鳴く。


「ええ、ぜひ。お待ちしています」


 リリ、リリリリ……

 二人を見送る私の耳には松虫の声だけが残っていた。

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