雛人形
恋人のいない日名子は、会社の同僚である林さんに好意を寄せていた。
その林さんは、ハンサムでスマートな体型をしていただけでなく、仕事もよくできた。
しかし日名子にとっては都合のわるいことに、林さんには恋人がいた。
日名子は林さんの気を引こうと、彼女なりに努力していたが、相手にされずじまいであった。
恋人の存在だけではなく、林さんは、そもそも日名子に魅力を感じていなかったのだろう。
日名子はそれなりに整った顔立ちをしていた。
しかし、性格は明るいとは言えず、趣味は古文を読むことであった。
日名子は林さんだけでなく、出会いを求めていろいろな手を打っていたが、どれひとつ、うまくいっていなかった。
「理想が高すぎるのよ」
数少ない友人たちは忠告したが、林さんより下のクラスの男と付き合うつもりは、日名子になかった。
日名子の婚活がうまく行かない中、年が改まって二月となった。
「立春が過ぎたわね。そろそろ雛人形を出さなくては」
休日の朝、日名子は人形を出すために、庭の隅にある蔵へ入った。
日名子の家は由緒ある家柄で、蔵などというものが今だにあった。
蔵の中には、日名子も何が入っているのか分からない箱が、無造作に並べられていた。
死んだ母親は中身を把握していたかもしれないが、婿養子の父親は何も聞かされていなかった。
とくにその日は用事がなかったので、日名子は次々に箱を開けていった。
どれもガラクタにしか見えないが、古物商に見せれば、どれもそれなりの値段で売れる
そのようなことを考えながら、日名子が
どうやら雛人形のようだったが、
気になった日名子が外へ持ち出してよく見てみると、それは異様な雛人形であった。
男雛は肌も衣装も淡い朱色に染められていた。
もともと赤い人形が、時を
対して、女雛は、全身が薄い墨色をしていた。
日名子が箱の底を確かめると、黄ばんだ紙きれが出てきた。
「これは、江戸の後期に書かれた文章かしら」
すらすらと読み進めるうちに、日名子の鼻息が段々と荒くなった。
「書かれていることが本当だったら、これはすごい掘り出し物ね」
紙きれをポケットにしまうと、日名子は期待を込めた視線を、二体の人形に向けた。
仏間に置けば父親が気にするだろうからと、日名子は自室に雛人形を飾った。
紙きれに書いてあった通りに供え物を用意し、男雛の前に置いた杯へ、酒を注いだ。
次に、日名子はためらうことなくカッターナイフで小指の先を切り、自分の血を酒杯に垂らした。
その後、鞄から取り出したのは、透明の小袋に保管していた林さんの毛髪であった。
それを日名子は取り出すと、女雛の右手首に巻き付けた。
「これで、林さんの自称恋人が死んでくれるのかしら。本当にそうなるとうれしいのだけれど」
気味のわるい笑みを浮かべながら、日名子は紙きれの文章を、もう一度確認した。
「呪いの力で、想い人との恋愛を助けるが、三月四日の日の出から、正午の間に人形を片付けないと、今度は呪いで婚期を逃す……」
雛人形の力は本物だった。
人形を飾ってから一週間後、日名子は人づてに、林さんの恋人が亡くなったのを知った。
日名子がそれとなく林さんを慰めると、今までとはちがう、良い反応が返ってきた。
それが人形の喜ぶことなのかは分からなかったが、日名子はまた指先を切り、ほほ笑みながら、血を酒杯に加えた。
しかし、その後の展開は、日名子の思い通りにはならなかった。
年の暮れになると、林さんは新しい恋人をつくってしまった。
しかたがないので、翌年二月になると、日名子はまた例の人形を飾り、新しい恋人を呪い殺した。
そして翌年も、同じことが繰り返された。
風向きが変わったのは、その次の年であった。
恋人を三年連続で失った林さんは、自暴自棄になったのかは分からないが、日名子の告白を受け入れて、二人は付き合うことになった。
二月になると林さんは、日名子の身を心配したが、彼女は死ななかった。
さらに一年が過ぎ、日名子は三十歳になった。
そして、その年の三月三日。
ついに日名子の望んでいた瞬間が訪れた。
とうとう日名子は、林さんからプロポーズされた。
婿入りしても良いとのことで、父親が聞けば、泣いて喜ぶにちがいなかった。
それなのに日名子は、「少しだけ時間をちょうだい」と即答しなかった。
三年連続で恋人を失くしたストレスのせいで、髪の生え際が後退し、かなり太っていた林さんは、笑顔で日名子にうなずいた。
林さんから求婚されたその日の夜。
日名子は登録しているお見合いサイトを見ながら、思案に暮れていた。
五年をかけて、当初の目的は果たした。
年齢的に、結婚は少しでも早くしたい。
でも、恋人を失くしたぐらいで仕事のミスを繰り返し、出世コースから外れてしまった男と、この私が結婚してもよいものかしら。
今の林と結婚しても、社内の女はだれも羨ましがらないだろう。
それだけは絶対に嫌。
でも死なない私を見て、林は私でなければだめだと思っているから、別れるのは骨が折れそうだわ。
他に男がいなかったから、付き合ってあげていたけれど、やめておけばよかったわ。
どうしようかしら、困ったわね……。
そんなことを考えながら、画面に次々と現れる自分好みの男たちを、日名子は次々に値踏みしていった。
やがて夜が更け、日付が三月四日となったときのことだった。
視線を感じた日名子は、後ろを振り向いた。
血の色をした男雛と、漆黒に染められていた女雛が、じっと日名子を見つめていた。
しばらく人形と視線を交わしたあと、日名子は机の引き出しからカッターナイフを取り出した。
「今日の正午までにあなたたちを片付けなければ、私の婚期を遅らせてくれるのよね」
男雛の前に置かれた酒杯から、桃色に濁った液体が
ピチョン、ピチョンという、音と共に。
それからしばらくした、ある日のこと。
日名子が、自室で、雛人形相手にワインを飲んでいると、見知らぬ番号から電話がかかってきた。
それは警察からのものであり、林さんが、自宅で変死体となって見つかった、とのことだった。
「はい。林さんとはお付き合いをしていました。プロポーズをされたばかりだったのに……」
日名子は、顔をゆがめ、声を震わせながら、林さんと最後に会ったときの様子を、刑事に告げた。
電話が切れた途端、日名子は無表情になり、女雛の右手首から、林さんの髪の毛を外し、ゴミ箱に捨てた。
それから、男雛の前の酒杯を手に取り、一気に飲み干した。
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