黒髪

 兄が不慮の事故で死んだ。


 葬儀の喪主は兄嫁がすべきだったが、憔悴しきってどうにもならなかったので、私の母が務めた。


 兄嫁は通夜にも告別式にも姿を現さず、ずっとマンションの自室に引きこもっていた。

 私が様子を見に行ったときには、壁にもたれながら床に坐り、天井の一点を見つめていた。


 頬がこけて艶を失った肌とはちがい、彼女の髪はいつものように黒々としていた。

 髪は床に横たわるほど長く、その様は、彼女の髪をよく自慢していた兄には悪いが、無数の蛇に見えてかんが走った。


 兄嫁の様子を見た私は不安になり、彼女の母親に目を離さない方がよいと告げた。

 母親も私と同意見で、当分の間、兄嫁から目を離さないようにするとのことだった。

 兄の名義だったマンションを引き払い、兄嫁は実家に戻ることになった。



 兄嫁が自殺未遂を図ったのは、兄が死んで一月後のことであった。

 その後もいろいろとあったらしいが、二年を過ぎて兄嫁も立ち直り、日常生活に支障がなくなったことを、本人からの電話で知った。



 一度、私に会いたいということだったので、兄嫁の実家近くのカフェで待ち合わせをした。

 二年ぶりに会った兄嫁は、長かった髪をバッサリと切っており、最初、彼女とは分からなかった。


 話を聞いてみると、以前から髪を切ろうと思っていたのだが、兄が好きだった長い髪を切ってしまうと、彼への思いも断ち切れてしまうように思われて、長い間ためらっていたそうだ。


 しかし、このままではいけないと、一週間前に自分で髪を切ったところ、後を追おうとまでした兄への思いが和らぎ、少しづつ元気が戻って来たとのことだった。


 少し寂しそうに話す兄嫁を見て、あの世の兄がどう思うのかはわからないが、これで良かったのだろうと思い、義弟としての肩の荷が下りた気がした。



 ふと、切った髪はどうしたのかと尋ねると、兄嫁がバッグの中から大きな紙袋を取り出した。


 中から現れたのは、両端を輪ゴムで縛られた髪で、長さは五十センチほどあった。

 その髪の束に私は、兄嫁から話を聞いていたせいだろう、彼女の兄に対する情念のようなものを感じた。

 それを彼女は察したようで、変なものを見せてごめんなさいと謝った。


 これから郵便局へ出向き、頭髪を失った子供のために、髪を募っている団体へ贈るとのことだった。

 それは素晴らしいことだったが、贈らずに燃やしてしまったほうが良いのではないか。

 なぜかはわからなかったが、そんな考えが、私の頭によぎった。



 さらに一月後、得意先によい求人があったので、兄嫁に電話をかけた。

 すると、兄嫁から、面接を受けてみたいとの返答があった。


 話のついでに近況を尋ねると、元気にやっているそうだが、気になることが二つあると、電話越しに兄嫁が言った。



 ひとつは、髪を切ったはずなのに、ときおり、髪の重さを感じたり、肩に髪がかかっているような感覚に襲われるとのこと。

 その感覚に襲われるたびに、兄への思いがよみがえり、胸が苦しくなるそうだ。


 心の傷などというものは、行ったり来たりを繰り返しながら良くなっていくものだから、立ち直ったその揺り戻しが、幻の髪という形で兄嫁を苦しめているのだろう。

 私が思ったことを口にしたところ、担当の精神科医からも、似たようなことを言われたらしい。



 もうひとつの気がかりのほうは、気味の悪い話だった。

 兄嫁の切った髪の話なのだが、寄付した団体が髪を失くしてしまい、責任者が直接謝罪に来たそうだ。

 ほかの寄付された髪は問題なく、兄嫁のものだけが、どこかへ消えてしまった。



 それから十日後、兄嫁へ仕事を紹介した得意先から電話があった。

 兄嫁は来社したが、明らかに体調が悪そうだったので、得意先の判断で面接を切り上げ、彼女を家へ帰した。

 その後、再面接の日程を相談しようとしたが、兄嫁と連絡がつかないでいるとのことだった。



 私は得意先からの電話を切り、そのまま兄嫁に電話をしたが、なかなかつながらなかった。

 結局、連絡がついたのは、一時間後であった。


 か細い声で話す兄嫁の話は要領を得なかったが、前に話をした時から、切ったはずの髪の重みを感じる頻度が増え、そのたびに死んだ兄を失った悲しみに襲われつづけた結果、実家の自室から出られなくなった、という話であった。



 その日の夜。

 仕事を片付けた私は、兄嫁の実家へ出向いた。


 玄関で出迎えてくれた兄嫁の母親は、私の顔を見ると少し安心したようだった。

 せっかくお仕事を紹介していただきましたのにと、頭を下げてきた。


 母親が階段下から、二階の兄嫁へ声をかけたが、返事はなかった。

 こんな時間に寝ているのかしらと、母親が階段を上がって行った。


 私が玄関で待っていると、しばらくして、二階からドスンという大きな音がした。


 革靴のまま、私が二階へ上がると、部屋のドアの前で、腰を抜かした母親が、あっ、あっと声を出しながら、部屋の奥を指さしていた。



 私が部屋の中へ入ってみると、首回りの紐に手をかけたまま、倒れている兄嫁が、白熱灯に照らされていた。

 その光景のために、立ちすくんでいた私の耳に、ギッギッという、聞きなれない音が入ってきた。


 一瞬のためらいののち、音の出どころである兄嫁に近づくと、彼女の首にかかっていたのは紐ではなく、細長く編み込まれた人間の髪の毛であった。


 その黒髪がヘビのように、もはや動かぬ兄嫁の首を絞め続けていた。

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