忘れ物
私はある中堅企業に作業員として入社し、自分で言うのも何だが、こつこつと真面目に勤めてきた。
そのおかげで、還暦を迎えたとき、工場の作業員から、本社ビルの警備員に配置転換となった。
定年で退職する前任者から引き継ぎを受けたのだが、警備員の仕事は簡単な雑用ばかりであった。
力や人手のいる仕事も時にはあるが、その際は総務部が手伝ってくれるので、問題はないそうだ。
作業のないときは、社員用の出入り口の、その横にある控え室で、待機することになっていた。
控え室には受付用の窓があり、そこで、出入り口を行き来する、搬入業者や社員の相手をするのも、業務のひとつであった。
午後六時になると、出入り口にはロックがかかり、ビルの外には出られても、鍵がなければ中に入れなくなる。
そうなれば、会社に、警備員がいる必要はなくなる。
「これで引き継ぎは終わりだが、何か気になることはあるか。何でも聞いてくれ」
社員用の出入り口で、前任者に尋ねられても、とくに聞きたいことはなかったが、ふと、目の前の掲示板が気になった。
火災予防ポスターの下に、「忘れ物」と書かれたメモ用紙が、ピンで留められていた。
そして、そのピンに、イヤリングがひっかけられていた。
メモ用紙も変色がひどかったが、イヤリングもずいぶんと黒ずんでいた。
大分前に拾われた物のように思われた。
「これは、おれが仕事を引き継いだ日に届けられたものだから、五年前の落とし物になるな」
「なぜ、ずっとこんなところにあるのですか。たぶん、もう、だれも取りに来ませんよね?」
「理由なんて、とくにないさ。じゃまにならないから、そのまま、かけてあるだけだよ」
イヤリングを手に取ってみたが、何の変哲もない代物であった。
掲示板に十分余裕があるのを確認すると、私はイヤリングを元の場所へ戻した。
翌週の月曜日、初めて、ひとりで業務についた。
トラブルは何もなく、定期の巡回と、控え室での待機を繰り返すうちに、午後六時が近づいた。
冬の暗やみの中、ビルの外周点検をすませて、社員用の出入り口から中に入ると、髪を後ろで縛った若い女性が、掲示板の前に立っていた。
会社の制服を着ていたが、私の知らない社員だった。
掲示板のイヤリングを、女性は見つめていた。
五年前の落とし物だから、彼女のものでは、おそらくないだろう。
私のように気になって、見ているのだろうか?
業務初日の緊張が解けていた私は、ちょっとした軽口のつもりで、「あなたの落とし物ですか」と、女性に尋ねた。
すると、女性がひどく青白い顔を私に向けて、小さくうなづいた。
落とし物のイヤリングと同じものが、彼女の右耳で揺れていた。
私は女性の雰囲気と、思わぬ返事に動転してしまい、「確かにあなたの落とし物のようですね」と、イヤリングを指さした。
私の許可を得た女性は、イヤリングを手に取ると、出入り口から去って行った。
落とし物を取りに来た人には、ノートに名前を書いてもらう決まりだったが、女性にお願いするのを忘れていた。
総務部のベテランに相談をしたところ、女性の容姿を聞かれたのちに、次の答えが返ってきた。
「そんなものは適当に書いておけばいいよ。しかし、その女の子はだれだろうな。いま働いている女の子の中で、当てはまる子はいなさそうだし。もし幽霊だとしても、僕はこのビルができた時から働いているが、当てはまる子はいないな」
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