何かがいる
束縛のひどい夫についていけず、私は離婚を決めた。
一日でも早く別れたかったので、慰謝料も財産分与も求めなかった。
私は逃げるように家を出た。
「いつでも戻って来ていいですよ。ただし、覚悟はしておいてください」
冷笑を浮かべながら、夫は私を送り出した。
夫は、行く当てのない私が、すぐに戻ってくると思っているようだった。
実家に戻れたら一番よかったのだけれど、反対する両親の説得を聞かずに、夫と結婚をした際、親子の縁を切られていた。
部屋を借りたくても、専業主婦であった私は、職に就いておらず、また、まとまったお金もなければ、保証人もいなかった。
しかたなく、高校時代の同級生に相談するため、彼が営んでいる不動産屋へ私は出向いた。
同級生とは一時期つきあっていたが、会うのは久しぶりだった。
「いい物件があるよ」
私の話を聞いた同級生が、カウンター越しに、青いファイルを手渡した。
中に挟まれていたのは、平屋の間取り図らしきものだった。
印字のかすれがひどく、とても見づらかった。
普通、間取り図の横には、住所や賃料などが記載されているものだが、それらはなかった。
同級生が口頭で、物件の説明をしてくれた。
借家の住所に土地勘はなかったが、夫と住んでいた家からかなり離れており、その点は好都合であった。
築年数は三十年で、一度リフォームがされていた。
「敷金、礼金はなし。家賃は……」
同級生の口から出た金額は、一軒家ではありえない低さであった。
「保証人が必要なのだけれど、それはまあ、僕がなるとして」
と言いながら、同級生は、
それに対して、私は、同級生がはめている結婚指輪に、視線を落とした。
「たださ。これだけ安いということは、それなりの理由はあるよ。もちろん」
スマートフォンを操作しながら、同級生が小声で言った。
「出るの?」
「出ないさ……。ルールを守っていればね。はい、これが物件の写真だよ」
「どういうこと?」
渡されたスマートフォンには、よくある二階建ての家が映っていた。
「平屋ではなくて、二階建てだったのね」
同級生が黙って
間取り図をもう一度よく見てみると、確かに、二階へ上がる階段が記されていた。
「二階の間取り図はないの?」
私の問いかけに、同級生は「ないよ」と、ぶっきらぼうに答えた。
「二階のことについては一切詮索しない。もちろん、二階には上がらない。もし、住みたいのならば、この条件は守ってもらいたい。それさえ守っていれば、普通の家だよ、あそこは」
私は黙って、同級生を見た。
学生時代には見たことのない、厳しい顔をしていた。
「嫌なら、他の物件を紹介してあげる。お金は、僕がしばらく立て替えるよ」
そう言ってくれたが、同級生の提案を私は断り、格安の借家を借りることにした。
書類に必要事項を記入していると、同級生が念を押してきた。
「なぜ、そのような物件を人に貸すのか。どうして、壊さないのか。そういうことも一切聞かないでくれ」
「もし、物音などがしたら、どうすればいいの?」
男は私から書類を受け取り、内容の確認をはじめながら答えた。
「そうだな。こう考えるといい。君はアパートの一階の住人だ。二階には別のだれかが住んでいる。だから、二階で物音などがしても、君も一階で音を出しているのだから、そこはお互い様で我慢してくれ。生活に大きな支障があるようならば、僕を呼んでくれればいい」
「アパートね……」
怖がる私の顔を見て、同級生が微笑んだ。
「何度も言うけど、ルールを守ってくれれば問題ないよ。これまでもそうだった。おかしなことは起きていない」
同級生の運転する高級車で、私は物件に向かった。
さっそく今日から住むために、途中で店へ立ち寄り、
元夫からは、新しい住所が決まったら、私物を送ると言われていたが、教えるつもりはなかった。
何度も着信があったが、夫からの電話には、一度も出ていなかった。
車を降り、いわくつきの一軒家の前に立ったが、外壁はきれいで、雰囲気もとくに変わりはなかった。
すべての雨戸が締まっており、二階の様子は不明であった。
玄関を開けると、目の前に、二階へ上がる階段があらわれたが、とくに何も感じられなかった。
寝室にする部屋へ、荷物を運び終えると、手伝ってくれていた同級生に、後ろから抱きつかれた。
しばらく抵抗したが、「いい仕事がある」と、同級生が耳元で囁くので、体の力を抜いて、流れに身を任せた。
私の新しい生活は、こうしてはじまった。
紹介された仕事は決して楽ではなかったが、元夫のいる家へ戻ることを想像すれば、耐えられた。
その間、借家の二階に上がろうとは、一度も考えなかった。
「どう、何かあった?」
時おり、同級生が様子を見に来た。
「前にも話したけど、たまに、何かが這いずり回るような音がする以外は、とくに……」
私の服を脱がせ終わると、同級生が言った。
「いつまでも、こんなところにいないで、僕の持っているマンションへ来ればいいのに」
私は同級生の右のこぶしを見ながら、ぼそぼそと曖昧な返事をした。
同級生が、私を優しく押し倒したので、自然と、私の視界は天井に移った。
いったい、何が這いまわっているのかしら?
引っ越しをしてから、半年ほど
同級生の出張先に、現地で落ち合い、近くの旅館に宿泊するとのことだった。
予約を取るのが難しい旅館であることを、同級生が、自慢げに私へ告げた。
話によると、私が家を空けている間に、二階の掃除をするらしく、私に居てもらっては困るようだった。
こちらからは何も尋ねなかったが、「使える坊さんを集めるのが大変でさ」と、同級生は愚痴をこぼしていた。
旅行から帰宅したあとも、生活に変化はなかった。
あいかわらず、何かが二階の床を這いまわっていた。
大人が四つん這いになっているのを想像すると、一番違和感がなかった。
事件が起きたのは、ある日の深夜だった。
私が一階で寝ていると、男の叫び声が二階から聞こえてきた。
「何だ、お前は。やめろ」
男は何かと争っているようだったが、物音は次第に小さくなり、やがて、二階は静けさを取り戻した。
男は聞き覚えのある声で、私の名前を何度も叫んでいた。
私は借家を飛び出して、同級生に連絡を取り、その夜は、彼の所有するマンションのひとつで、朝を迎えた。
そして、そのまま借家に戻ることは許されず、そのマンションで生活をすることになった。
その後、借家のことを尋ねても、同級生は何も教えてくれなかった。
しばらくすると、警察から連絡があり、元夫が
事情聴取を受けたが、一度だけで済んだ。
さらに月日が過ぎたのち、元夫の代わりに家を管理していた親族から、私物を取りに来るよう、連絡があった。
電話の相手に対して、出向く旨の返事をしようとした時、私の脳裏に、ひとつの映像が浮かんだ。
昔住んでいた家の中で、荷物を整理している私の背中に向かって、四つん這いの元夫が襲いかかってくる。
頭に浮かんだ妄想に負け、私は元夫の家に行くのを諦めた。
そのため、何点かの思い出の品だけを、着払いで送ってもらおうかと考えたが、結局はそれも止め、すべての私物を処分してくれるようにお願いした。
それから後のことを話すと、私は両親に頭を下げて、生家に戻った。
同級生のマンションからは、行き先を告げずに黙って出て行き、それ以後、彼からの電話には、一切出ていない。
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