第11話:対立

 ゴーンゴーンと頭上から響いてくる音で、本の世界に沈んでいたフェイの意識は急速に浮上した。まず目を向けるのは、ベッド脇のサイドテーブルに置いている時計。


「あらら、もうこんな時間に……」


 窓辺に座っていたフェイは栞を挟み込み、ふと視線を窓の向こうへと投げた。

 ほんの一週間前までは見えていた空はどこにも見えず。夜空に瞬く星のように、家々の明かりや街灯と軒先の灯が輝いている。聞こえてくるのは、歯車同士が噛み合って回る音。蒸気機関の稼働音。遠くからは、人々の喧騒を感じさせる声が耳に入ってくる。静かな場所でないことは確かだが、フェイはその程度の音など気にならない。

 フェイは小さく息を吐き出し、頭を窓ガラスに付けてもたれかかる。窓の向こうの暗い世界。窓ガラスに反射したフェイ自身の顔が映った。


「………師匠。私はこのまま……」


 その唇から呟かれた言の葉に応える声はない。分かっている。それでも、不安に駆られた時につい零れてしまう言葉だった。フェイは両膝を合わせて抱え込み、寄せた膝に額を擦り付ける。その下の顔は、自嘲的な笑みを貼り付けていた。


「ほんと、……臆病者ですね、私は」


 今日はこのままここで寝てしまおうか。フェイは大きく息を吐き出すと共に、瞼をゆっくりと下ろす。体から意識的に力を抜き、背中を窓の傍の壁にぺたりと付けた。

 そのタイミングで、扉からこつんこつんと小さな音が鳴ったのを、フェイの耳が捉える。外から響く蒸気機関の駆動音に打ち消されなかったことを鑑みると、そこそこ大きな音だったのかもしれないが。

 まず、フェイは時計を睨む。時刻は夜も深まった頃。一般人は就寝しているか、歓楽街や繁華街といった場所へ繰り出している時間帯だ。そして、この時間はここに住んでいる夜警達が、仕事に従事している時間帯でもある。

 訊ねてくる者がいるとすれば、管理長として施設に常駐しているリーンハルトか、彼の右腕といえる副管理長のヨキのどちらかだろう。しかし、どちらの場合でもノックと共にフェイの名を呼ぶか、自らの名前を告げてから扉を開けてくる。

 軽くノックして扉を開けてもらえるのを待つ、ということをこの二人はしないのだ。そうすると、フェイが視線を向ける茶塗りの木製扉を叩いた人物は何者か。フェイはぞわりと背筋を震わせ、乾いた喉を潤すべく唾液をごくりと飲み込んだ。

 ゆっくりと窓の傍から離れ、一歩一歩扉の方へ近づいていく。手は左側、すぐに眼帯が取り外せるようにする。


「……はーい、今開けますね」


 そう言いながら、フェイはそろそろと扉を開け、その先に立っているであろう人物に目を向けた。


「へ? え、エルムさん?」


 扉の前に立っていたのは、エルム。予想外の人物に、フェイは思わず体の動きを止め、まじまじと彼のことを見た。そして、普段と様子が違うことに気づく。

 外套や衣服のあちこちが、焦げていたり裂かれていたりと酷い状態に変わり果てていた。少なくとも、彼自身がそのように加工したわけではないことは確かだろう。そういった趣味嗜好を、エルムから感じ取ったことはない。そして、何より気になったのは、普段より幾分も濃い血の香り。傷んだ服に点々と滲んでいる赤を目にし、フェイは大きく目を見開く。思わず手を伸ばそうとして——、その手を止めてしまった。

 殺気。

 エルムの体から発されるそれは、フェイの白肌をびりびりと痺れさせるほどの強さを持っていた。息を呑む、手指を動かす、彼へ近付く。そんな何気ない動作一つで彼の手で命を奪われてしまいそうな……。そのような雰囲気を抱いている。

 しかし、いつまでもここで顔を見合わせているわけにもいかないだろう、とフェイはすぐに思考を切り替えた。彼を見るに、怪我を負っていることは確か。きちんと適切な処置をしなければ、悪化する可能性もある。

 フェイはぐっと腹の底で覚悟を決め、一歩踏み出す。エルムとの距離を僅かに詰め、中途半端に伸ばしていた手で彼の衣服の裾をそろりと緩く摘まむ。


「……あの、エルムさん。怪我、されてますよね? すみません、治癒関係のマギアは私持っていないんです。ここ、確か医務室がありましたよね? 一緒にそちらへっ、」


 フェイが提案している最中、ぶわりとエルムの纏う殺気が強くなったのを感じ取り、すぐにフェイは彼の衣服から手を離し、素早く後ろへ身を引いた。瞬間、ひゅっと空気を裂く音、薄暗い室内に銀の刃が輝いた。それをフェイの目が捉えたと同時、ぱらりと黒の眼帯が下に落ちる。

 フェイは、慌てて左顔面を片手で押さえ、ゆっくりとエルムから距離を取っていく。その手の平が僅かにぬめったことに気づき、どうやら頬も切られているらしい、と冷静に脳内でチリチリとした頬の痛みの理由を察した。


「……殺したくなるほど、お嫌いですか、私のこと」


 彼の唇から零れたのは、普段の温厚さを微塵も感じさせない、平坦で抑揚のない声。エルムは、赤く汚れたナイフをくるくると器用に回しながら、フェイが離した距離を詰めるべく足を踏み出した。


「しゃ、シャルルが、いっ言ってたんや。おっお前は、つ強いって。……でも、ぼっ僕には、わ、分からん。みっ見るからに、ちっ血も暴力も、はは犯罪も知らん、し、白くて、お、お綺麗で……。あ、あっさりと、こっ殺されて、まいそうな。弱い、奴。ぼ、僕とは違う……!」

「ッ!」


 たんっと軽い踏み込み。しかし、そんな軽い音とは裏腹に、エルムは一気にフェイとの距離を詰めた。その突進をフェイは躱しきれず、そのまま強かに背中をカーペットの床に打ち付ける。打った痛みに眉を顰めている間に、エルムはフェイの上に馬乗りになった。

 無駄のない、流れるような動き。フェイは眉間の皺を寄せたまま、エルムの顔を見やる。周囲が薄暗いことに加え、深く被っているフードの影のせいで、彼の表情は一切分からなかった。


「ふひ、ひひひ……。ほっほら、弱い」

「っ……」


 フェイは逃げようと藻掻くものの、エルムは容赦なく乗った腹部に体重をかけて圧迫する。そして、エルムはナイフを構え、呟く。


「だ、だから帰れって、いっ言ったんや」

「……へ?」

「ぼ、僕、ばば、バケモノ、やから、つ、強くないと、きっ傷付ける。ひっ人も物も、ぜんぶ。こっ壊してまう。そっ、そんなんした、したく、ないのに……ッ! で、でも、じ、自分じゃどうしたらええか、わっ分からんくて」


 フェイはぽかんとした顔のまま、エルムのことを見ていた。振り上げられたナイフが、カタカタと小刻みに揺れている。


「だっ、だから、せめて、よっ弱い奴は近くにお、居らんように! そ、そうおっ思うて、僕、あ、アンタにき、嫌いってい、言うた! さ、さっさと帰れって! なのに、あ、アンタは……」


 そこでエルムは口篭り、フェイの喉にナイフの切っ先を向けた。もうその手に震えは、ない。


「よ、弱いのに、強い? わか、分からん。わけ分からん。……怖い。怖い、こっ怖いのは、あかんこと。だっだから、ここ、怖いのを消したい。あ、アンタが、おお、おらんくなってくれたら、こっこの怖いの、なっなくなる? な、なぁ、教えてや、あ、頭、ええんやろ?」


 どこか縋るようなエルムの声。その間、フェイは一言も発さず、また身動きもせず、彼の独白のような言葉を聞き続けた。そして、フェイはゆるりと口角を上げる。


「ええ。きっと、怖いと思う感情は消えるでしょうね。私が来る以前にも起こっていたなら話は別ですけど、そうでないなら私が原因でしょうから。試しに取り除こうとする判断は、百点満点ですよ。もしそれで貴方の心が軽くなるのなら、貴方にです。──ですけどッ!」


 フェイはそこで言葉を止め、腹筋に力を込めて一気に起き上がった。エルムはすぐにフェイの体から飛び退き、彼の頭突きを躱す。フェイは残念そうに肩を竦めつつ、ゆっくりと身を起こした。その顔は、不敵な笑みを浮かべている。


「分からないことを分からないままにしておこうとする姿勢は、よろしくない。えぇ、大変よろしくないです。その姿勢は、貴方に成長をもたらしません」


 フェイは、いつもよりも棘のある丁寧口調でエルムへ語り掛けた。エルムが求めた『先生』を意識して。彼の意識が己へ向くように、だ。

 それと並行する形で、フェイは昼間にレオンとシャルルが話していたことを思い出していた。「スイッチが入ると目に入るもの全てを敵と認識し、スイッチが切れるまで殺して回る」という話を。

 フェイは己の運のなさを心の中で嘆きつつ、右手をゆっくりとベッドの傍へ手を伸ばしていく。相手に迎撃する気がある、と認識したようで、エルムの纏う殺気が強くなる。

 そんな彼へ、フェイはふっと柔らかな表情を向けた。


「エルムさん。まずは、お気遣いありがとうございます。私のことを思って、あのような態度を取っていたんですね。謎が解けました。……確かに私は、皆さんと比べれば格段に弱い魔術師です。貴方のように夜警として働き、命のやり取りをして……人の命を奪うことは出来ない。ですが、私を何も知らないただのお綺麗な人間だと断じられるのは、不快です」


 表情とは裏腹に言葉は強く、そして鋭い。

 フェイはにこっと微笑んだ次の瞬間、手に持っていたトランクをエルムに向けて放り、左顔面を押さえていた手を外す。

 薄暗い空間に露わになったのは、白濁色の瞳。その瞳がトランクを射抜いたのと同時。トランクは突風にあおられて、エルムの元へと勢いよく吹き飛ばされた。

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