第12話:声を聞いて

 エルムは突然勢いよく飛んできたトランクに目を見張ったものの、すぐにその場から身を翻し、フェイに向けて手持ちのナイフを投げて飛ばす。フェイは飛んできたナイフを睨み付けると、ナイフは突風にあおられてその場にからんと落ちた。

 エルムは舌打ちし、腰に吊っていたナイフを取り出して構える。対するフェイは左瞼を閉じ、手で押さえて息を吐く。


「……そっその目が、アンタの、ま、マギア、か」

「そうです。私、こちらの目がないので。なかなか合わせて作るの大変だったんですよ、これ。……まあ、そんな世間話はさておいて──続けましょうか?」


 フェイは笑みを絶やさずそう言い、顔から手を離す。エルムはそれと同時に、再びフェイと距離を詰める。一歩踏み込む。それだけで、二人の間合いは縮んだ。人の脚力では、到底縮まるはずのない距離があったというのに。しかし、マギアを使っているのなら、話は別だ。

 この組織の支給品の一つ、風魔術が組み込まれたマギア。それを使えば、予備動作をほとんど見せないままで瞬時に間合いを詰められる。

 己が使うマギアとしては優秀だが、相手側が付けて使っているとなると厄介でしかない。フェイは、思わず奥歯をギリと鳴らした。

 そんなことを考えている間に、エルムのナイフがフェイの眼前に迫る。フェイは、ナイフではなく、エルムの腹部に目を向けた。刹那、エルムの腹部を突風が襲う。その強さに堪えきれず、エルムはカーペットの敷かれた床を転がっていく。テーブルと椅子が風で倒れ、がちゃんがちゃんと派手な音を立てた。


「……ッう、すご、いですね」


 フェイは小さく呻きつつ、左肩に刺さったナイフの柄に触れる。

 エルムが体が吹き飛ぶ寸前に手を伸ばし、フェイの左肩に突き刺したのだ。その咄嗟の判断能力に、ただただ舌を巻く。彼はこのようなことが出来るようになるほど、幾多の戦いに身を投じたのであろう。それを想起したが故に、フェイの口からは感嘆の言葉しか出てこなかった。

 そのまま、エルムからのアクションを待つフェイ。だがしかし、エルムが起き上がる気配は一向に見られない。


「……エルムさん?」


 声を掛けるも、反応はない。フェイはぞ、と背を震わせる。

 フェイのマギアに、直接的な殺傷能力はない。それは事実だ。だが、風で吹き飛んだ体の打ちどころが悪ければ、死ぬ可能性はもちろんある。

 フェイがエルムの傍へ駆け寄ろうとした時。右手の温度が、僅かに上がる。それに気付いたフェイは足を止め、意識を集中させた。

 じわりと、確かにナイフから伝わる熱。気のせいではない。

 フェイはすぐさまナイフを引き抜き、痛みを噛み殺しながらそれを宙に放り投げる。

 その刹那。エルムのナイフが爆ぜた。

 爆風が生じ、フェイは片手で顔面を押さえつつ、それから距離を取る。


「あーあ、ゆ、油断しとると、お、おお思ったのに」


 床に伏していたエルムは残念そうに呟き、ぴょんと起き上がる。起き上がる動作のせいか、風が吹き荒れる場であるからか、外套のフードは取り払われており、ビスケットのような色味の茶髪が暗がりの中を舞い踊った。

 長い前髪で隠されている双眸は、濁った緑。その目に薄紫色の光が瞬いたのを見て、フェイは目を見張り、呆れ混じりの声で吐露した。


「……精神干渉系の魔術、ですか」


 これまた厄介な、とフェイは口の中で呟く。

 精神干渉系の魔術は、人の心に作用する魔術を指す。主に挙げられるのは、魅了チャーム、洗脳、催眠、精神支配……。どれも強力な魔術である。しかし、精神的に強い者や魔力耐性のある者には効きにくいという側面もあり、実用性が高いかと言われれば否。また、直接的な殺傷能力も低い為、使用者はあまりいない。そこを突いて、扱う者もいるが少数マイノリティ側だ。

 恐らくエルムは、その『少数』に属する魔術師と対峙し、魔術を掛けられてしまったのだろう。普段のエルムに、魔封じのマギアを持っている素振りは見受けられない。

 エルムの言葉が本当であると仮定すれば、フェイに対して恐怖心を抱いていたのは事実だろう。が、それが二、三日で心変わりして抑えきれなくなることはないはずだ。数日間耐えられていた感情であったのだから。

 フェイは奥歯を噛み締めて、だくだくと血が流れる左肩を押さえつつ、左目を閉じてエルムを睨む。


「やるやん」

「ふふ、お褒めに預かり光栄です」

「む、難しい言葉、つっ使ってンちゃうぞ。でっでも、アンタ、やっぱ弱いわ。あ、アイツらなら、もっもっと、殺り合い、でっ出来るもん」


 エルムはフェイのことをそう断じ、ぎゅとナイフを握る手の力を強めて、ゆるりと口角を上げた。その合間から、鋭く尖った歯が覗く。フェイは、一歩一歩近付いて来るエルムの双眸を見続けていた。


「くっ、くふ、ふふふ……っ! にっ逃げんの? にっに逃げんと、死ぬで?」


 二人の距離は、鼻先が触れ合うかと思うほど近くなる。

 ナイフの刃が、フェイの細首に当てられた。つぅ……と、赤い筋が一つ伝う。フェイは表情を崩さない。


「怖い、怖いやろ? ぼ、バケモノんこと。あ、アンタ弱い、からッ!」

「──いいえ、全く」


 頸動脈を切り裂かんとしていたナイフが止まる。エルムの目が見開かれ、信じられないものを見るような目でフェイのことを見下ろした。

 フェイは変わらず、微笑んでいる。その顔を見てエルムはギリと歯噛みし、フェイを勢いよく押し倒す。

 カーペットが敷かれているとはいえ、硬い床。フェイの口から呻き声が零れ、眉根が寄る。それでも次の瞬間には、柔らかな表情に変わるのだ。抵抗する素振りもない。エルムは、寝転がったままのフェイを見下ろす。

 フェイの体はボロボロだ。左の頬に一筋。左肩からはとめどなく血が流れ、首には薄く赤い線が滲んでいる。しかし、銀の瞳は死んでいない。エルムのことをしっかり見ている。


「ッうう嘘吐くなや! ここっ怖いやろうが!」

「嘘じゃないですよ。本当に怖いなら、暴れて泣き喚きます」


 フェイの声に焦りはない。軽く肩を竦め、世間話をしているような口振りだった。エルムの頭は混乱していく。

 エルムの方が、フェイより強い。現に今、フェイのことを押さえ込んでいるのはエルムであり、体の状態を見てもフェイから受けた傷は打撲程度。対する彼は、あちこちから出血している。しかし、フェイはエルムを怖くないと言う。エルムはフェイのことが怖いのに。

 何故。何故。何故。


「エルムさん」


 慣れぬ思考の波に溺れそうになっているエルムを引き上げるように、フェイは優しい声を掛けた。ぼんやりとしたエルムの目が、フェイを見る。


「エルムさんは、とても心優しい、仲間想いな方ですよ」

「……は?」


 フェイの口から出てきたのは、荒れて殺伐とした空気が漂うこの場に相応しくない褒め言葉。ぽかんと口を開けたエルムを放って、フェイは言葉を紡ぎ続ける。


「好きなものを書くという宿題で、上の方に書かれていたのは、全部ここの施設に居る人の名前でしたから。それに、初日に私のことを嫌いだと言った割に、授業を受けにここの部屋へ来てくれましたね。嫌なら来なくてもいいと、私の方から言ったのにも関わらず。私のことが嫌いなら、話を聞かないとか、授業を邪魔したっておかしくないのに。貴方はそういうことを一切しませんでしたね。それは、貴方の根が優しいからでしょう? それと、ヴィオさんとノーマさんから聞きました。二人は、貴方のことを兄のような方だと仰ってましたよ。つまり、面倒見が良いということですね」

「な、何、何なん?」

「たった十数日。ですが、私はこんなにエルムさんの良いところを知っている、ということです。だから、怖くないんです。貴方のこと」


 フェイはゆるりと左手を伸ばす。手の甲には肩から伝ってきた血で汚れていたため、出来る限りそれがエルムの髪の毛に触れないよう注意しつつ、彼の前髪を掻き上げた。


「今、私は武器を振るう貴方を知りました。ですが、他にもエルムさんの良いところをたくさん知ってるから、私は怖くないんですよ。エルムさんも、そうでしょう?」


 ゆっくりゆっくり。柔らかな髪の毛を撫でながら、エルムの強ばった体の力を外へ逃がす。精神が安定し出したようで、緑眼から徐々に濁りが消えていき、彼の名の通り鮮やかなエルムグリーンに戻りつつあった。

 その色が戻り切る前に、エルムの瞼がストンと落ちる。体から一気に力が抜け、フェイの胸板にエルムの頭がぽすと寄りかかった。


「……傷を負ってましたし、魔術もかかった状態でしたから、精神疲労が原因ですかね」

「フェイ!」「フェイさんっ!」


 ふ、とフェイが息を零すのと、バンと勢いよく扉が開いたのは同時。そこには、息を乱したリーンハルトとヨキが立っていた。

 部屋の荒れ具合を見ながら、リーンハルトとヨキはフェイとエルムの傍へ駆け寄ってくる。


「大丈夫か?」

「はい。……すみません、部屋、かなり荒らしてしまって……」

「そんなことを気にするな。ヨキ」

「はいはい」


 ヨキは一つ返事でエルムの身体を抱え上げ、部屋の外へと連れ出していく。


「……あの、エルムさん、怪我してたのでそれの手当てと、あと精神干渉の魔術を掛けられているみたいなので、解術の方を」


 フェイがそう言うと、リーンハルトは目を丸くしていた。その意図が読み取れず、フェイは首を捻る。パチパチとリーンハルトは瞬きをし、次いでフェイの亜麻色の髪に指を通した。


「……あぁ、分かった。フェイ、お前も休め。エルム相手に、よくやった」

「……あ、ありがとう、ございます……。あの、左目、ほ、たいか何か……で」


 フェイの言葉に、リーンハルトは首を何度も縦に振るう。それに安心したフェイは、瞼を閉じて息を吐き出す。そうすれば、疲弊しきっていたフェイの意識は、休息のためにすぐに眠りの世界へと落ちて行ったのだった。

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