下等転生

西条彩子

第1話 下等転生


 俺は蟻を待っていた。

 暗い砂の中、すり鉢状の窪みの底で、愚かな蟻が足を滑らせ落ちてくるのをひたすら待っていた。

 この巣を作るにはまあまあ労を要した。まず風雨をしのげる場所を選び、砂が多い安息の地を探す。ずんぐりと丸い体躯で砂の中を後ろ歩きで巡ると、顎に砂が溜まる。俺は顎を振り上げその砂を飛ばす。ギザギザとした顎は、大きな砂や異物だけを飛ばすことができた。あとには細かい砂ばかりが残った。

 底になればなるほど砂は細かい。何度も繰り返してやっとそれらしい巣になった頃には、小さな穴からほっそりと入り込む光は淡く弱くなっていた。

 何時間かかったなど、もはやわからない。どうでもよかった。俺はただ、餌がそこに落ちてくればそれでよかった。

 窪みに何かが侵入すると、穴から砂が落ちてくる。俺はその侵入者目がけて砂をかけた。何度も何度もかけた。こうすることで獲物は足を滑らせ、逃げられなくなるからだ。一番底に落ちてきたら、こっちのものである。あとは俺自ら捕らえればいい。

 獲物は、喰わない。代わりに消化液を注入する。中身を溶かし、ジュースのようになったら飲む。ゴキブリの子どもが落ちてきたらラッキーだ。いろんなものを喰って丸々と肥えた奴らは、ジュースの量も多くてうまい。抜け殻は異物同様、顎で外に投げ捨てた。

 誰に教わったでもなかった。ただそういう生き方しかできないようだった。この虫として生まれたときにすでに、そうせねばならないと組み込まれていた。


 実は、俺がこうして転生するのは四度目である。

 最初に転生した場所は地下鉄の線路上で、俺はネズミだった。ふぁん、と響いた汽笛と眩しいライトにおののいて逃げた。そこで兄弟だったやつらが何匹か潰れて死んだ。

 ドブ臭い地下を四足で拙く進みながら、なぜこうなったのかと考えた。俺にはこのネズミの生を受ける前、人間だったころの記憶がはっきりとあったのだ。俺は自分で言うのもなんだが育ちがよく、学歴がよく、興した会社を一代で大きくして人徳を集め、家族に看取られ死んだ。大往生だった。

 善き行いをすれば、来世も善き生が受けられる。

 そのはずがなぜこうして畜生に堕ち、逃げ回って残飯をあさり、泥水をすすらねばならないのか、納得できなかった。

 ゆえに、居酒屋の裏のゴミ捨て場で出会った、同じネズミに尋ねた。意思疎通はなぜかできた。


「知るか。俺がわかるのは、お前が今ネズミで、俺と同じメシのおこぼれを喰うしかできねえってことだけだ」


 納得など、到底できなかった。このときの俺の生は、どこの誰が仕掛けたかもわからない毒エサに引っかかって終わった。

 その次は、オタマジャクシだった。澱んだ水の中でぶよぶよの卵を突き破って生まれ、池だか沼だかもわからない場所を泳いだ。水は深くなく、水草の下や影に行っても生ぬるい。

 躰は柔かで、尾をくねらせると進む。頭の後ろ、左側に穴があり、そこから呼吸ができた。人間の心臓のように片側だけらしい。エラ呼吸は奇妙な感覚だったがすぐに慣れた。普段は水草を喰ったが、たまにメダカを喰らう。

 やがて尾の付け根がむず痒くなったと思ったら、表皮を突き破って後ろ足が生えた。少しだけだが泳ぎやすくなった。前足は後ろ足と違い、左から生えてきた。バランスが悪くて泳ぎづらい。だがそのうち右の前足が生えてくることもわかっていたので放っておいた。

 だがある日突然大雨が降り、水が流れ出た。右の前足が小さなままの俺が抵抗できるわけもなく、仲間と一緒に流された。行き着いた先は、土の上だ。

 そこにできた水たまりは、長くは持たなかった。その日からは日照りが続き、水たまりはすぐに干上がった。体から水分が抜けていくにつれ息ができなくなって俺は死んだ。カエルになることすらもできなかった。


 次は、あまり気持ちのいい目覚めじゃなかった。体のいたるところ、何かがチクチクと這いずっているような感触がある。そこは狭く、暗く、おびただしい数の何かがひしめいて、満員電車を彷彿とさせた。そこへ光が差し込み、どっと外へ押し出される感覚もまさしくそうだった。ただ違うのは、俺の両手は鎌状で、細い体躯に四本の脚が生えていることだ。

 一緒に出てきた周りの奴らも、同じ姿をしていた。どろっと塊になって草むらの地面に降り立ったとき、俺はもうどう歩けばいいか、どう鎌を振るえばいいかがわかっていた。襲ってきた空腹感に俺の目と鎌と脚は忠実で、辺りで動くものに向かっていった。同じ卵で育ったであろう兄弟だった。

 だが、そんなこと知るか。俺は生きるしかない。生きてこの生命を繋ぐしかない。

 成長するたび脱皮を繰り返し、襲う生き物も大きくなった。口は上顎下顎に加え、細かい触手のような髭が生えている。これで獲物をバリバリと噛み砕く。

 最初はコバエ程度だった獲物も、今やコオロギやバッタくらい食べないと腹持ちが悪い。ただし内蔵の部分は葉の腐ったにおいがきつくていつも残した。蝶なんて最悪だ。胴は小さいし翅が粉だらけで喰えたもんじゃない。

 気温が上がるごとに食欲は増した。ちょうどよく木にいたセミを捕まえ、前足を食べた。足が短いから難なく頂けた。

 だが、こいつはとにかくうるさい。食べている最中も絶えずジージーとがなり立てる。なにか訴えるようにキシキシ動いて鬱陶しい口を喰ってやったら、余計にうるさくなった。まるで断末魔のようだ。途中で喰う気が失せかけたが、せっかくの獲物だ、我慢した。続いて顔の右端にある目を食べた。こいつの目は全部で五つあるのだと、このとき初めて知った。逆側の目にかじりついたときには、うるさい翅音は消えかけていた。

 気づけば体もだいぶでかくなった。そのころになってもう一つ、欲求が膨れ上がってきた。そう、交尾欲だ。だがカマキリは交尾の際、雌が雄を食べると聞く。

 人間だったころの俺はかなりモテた。浮気らしい行為もそれなりにしたが、妻に咎められたことはなかった。本気で気づいていなかったか、遊びだとわかっていたのだろう。女を適当に喰っては捨て、何もなかったように家に帰った。

 喰うことはあっても喰われてたまるか。俺はいざそうなったときのために、シミュレーションを繰り返した。

 狙うなら、腹を空かせた雌より満腹なやつがいい。体が小さければもっといいだろう。後ろからゆっくり近づいて捕らえ、交尾器を挿入。やり方はなんとなく体が知っていた。女を抱いたら腰が振れるのと同じ原理だ。

 俺は待った。繁殖期でヤれそうな雌を待った。小さくて腹が満たされていそうな奴を、ただひたすら待った。しかし、そう都合よくはいかない。人間のときには当たり前にあった社長の名刺や、上等な時計もスーツも俺にはなかった。威嚇のときに鎌を持ち上げ、後翅を大きく広げて見せるくらいしかできなかった。風に乗って羽ばたく以外、この翅はこの程度しか役立たない。

 それでも待っていると、一匹の雌が草むらからやってきた。俺と同じか、少しでかいくらいの奴だった。

 この際なんでもいい。とにかく子孫を残さねばと急き立てられ、背後から近づいた。鎌で押さえつけのしかかり、腹部を絡める。交尾器の棘で産卵管が埋まっている鞘(さや)をはずせば、あとは中へ突っ込むだけだ。

 だがそのとき、俺の右の鎌がなにかに捕らえられた。感覚がなくなったのはすぐのことだった。痛みはない。パリパリ、という音を立てて、俺の鎌だったものが、眼前の頭の頂点にある口の中に消えていく。


「あんた、いいもん食べてきたみたいね」


 雌がこちらに首を回してニタリとした。

 ぞっとした。やられる、と思った。なのに交尾器はなおも中に入ろうとして止まらない。危機に瀕していながら、むしろますます必死になって、交尾をなそうとしていた。


「ねえ、なんであたしたちが交尾で雄を食べるか教えてあげようか」


 雌は俺の首に鎌をかけて囁いた。


「そのほうがたくさん卵を産めんの。しかもあんたたちは栄養豊富だから、子どもにそのまま栄養を分けることができるんだよ」


 雌の顎がかぱっと開き、俺の首目がけ喰いつく。すんでのところで俺は避けた。だが、片手を失った俺は完全に不利で、二度目の攻撃は避けられなかった。


「子どもが健康に産まれたら、その分生存率も上がるでしょ。捕食すんのは理にかなってんの。あ、安心しなよう、あんたもぜーんぶ食べてあげる。はらわたひとつ残さずぜーんぶ」


 首が噛み切られ頭が体から分かたれた。左目が喰われ、右目が喰われた。音も光もすべて消えた。なのに俺はまだ浅ましく交尾器を振っていた。中に精を押し込む瞬間ぶるっと震えたが、人間のときのようなわかりやすい快感はなかった。俺が死んだからなのか、そういうふうにできているからなのかはわからない。


 そして今度はこの有様だ。蟻様様だ。罠に落ちてきた蟻を溶かして飲み、穴から外へ捨てる日々だ。

 せめて記憶がなければいいのに、なぜかそれだけは毎回ある。遺伝子に刻まれた通りの行動をしながら、この体の末路がどうなるかだけが気がかりだった。地下にいる分外敵は少なそうだが、なにがあるかわからないのが自然なのだと身にしみていた。

 ある日、なんの前触れもなく穴に閃光が降ってきた。それはとても熱く、独特のにおいを放っていた。閃光の色が白から赤に変わってようやく、花火だと気づいた。そのときにはもう体の半分が焼かれていた。

 ああ、今度はこうやって死ぬのか。こんな子どもの些細ないたずらで。俺が一体何をしたというのだろう。意識が暗く、暗く沈み遠のく。どうか今度こそこのまま楽にしてほしい。


 だが、神様とやらはそれを叶えてはくれなかった。

 しかも今度の俺は、一人じゃなかった。喰う、寝る、生殖する、という概念はなく、気づいたときには俺は増殖を繰り返し、『俺』という生命を新たにしていった。みんな『俺』だから好き勝手していたしよく喋った。セミの断末魔よりずっとうるさかった。


「なーなー、これまでの転生なにが面白かった?」

「カマキリだな。最初に同胞を喰ったときの気持ちよさはたまんなかった」

「唯一交尾できたしな」

「俺はアリジゴクも嫌いじゃなかったぜ」

「巣作りは大変だったけどあの汁飲むと苦労を忘れたよ」

「あれ、本当はウスバカゲロウっていうんだ」

「じゃあ成虫になってもあんま生きられないわけか」


 まともな話など誰一人しないまま、『俺』は増え続けた。そのうちどこかの『俺』がふと、「そういやさ」と切り出した。


「花火突っ込まれたので思い出したんだけど、昔、墓場だかどっかで、でかい石めくったときにいろんな虫出てきたの覚えてるか?」


 あー、あったあった。子どものときな。小学校上がるかどうかのころだっけ。そこかしこの『俺』が口々に言う。で、それが? 『俺』の誰かが訊いた。


「そこにいた奴らをはしゃぎながら踏み潰しまくった夜、高熱出しただろ」


 おー、そういえば。そうだそうだ。しかもまあまあ高熱な。ひと晩で治ったけど、風邪でもなんでもなかったんだよ。

 で、それが? 『俺』の誰かが訊いた。


「たぶん、これまで転生してきたの、そこで踏み潰した奴らだ。ネズミは半分死にそうになってて、それにカマキリがかぶりついて、ぬかるみにはカエルもいて、アリジゴクの巣に死体を突っ込――」


『俺』の声が途絶えた。というか今回の俺は、一体なんだ?


「十六時三二分、○○○○さん、ご臨終です」


 その名は、忘れもしない俺の孫の名だった。


「COVID−19の死者はこれで四人目か」

「ご家族の面会も立会いもできないままでしたね」

「灰になるまで会わせられんが、仕方ない……」


 医師がなんの話をしているのかは、さっぱりわからない。ただ、俺の孫は誰にも看取られることなく死んだということだけがわかった。



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下等転生 西条彩子 @saicosaijo

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