第8話 紛争終決 その後の世界

1991年8月21日12時頃 北樺太


 19日の13時30分から開始された、北樺太制圧とリマレンコ大将逮捕を目的とした北端作戦は、大詰めを迎えていた。


 日本陸軍は南樺太から3個戦闘団を投入し、北樺太へ進軍し、縫江ノグリキ近郊の海岸からは日本海軍の1個陸戦旅団が上陸、北樺太の南と北で、ソ連サハリン防衛軍を分断し、南側に取り残された部隊は、陸軍の戦闘団により各個撃破され、海軍陸戦旅団と合流した陸軍の3個戦闘団は北上を続けた。


 一方、陸軍が越境をした頃、樺太の北に位置する奥端オハでは、海軍の特別陸戦隊2個小隊が、北樺太油田株式会社の施設を奪還するための作戦を開始し、占拠していたソ連軍部隊を排除して、北樺太油田株式会社の施設を奪還した。幸い、北樺太油田の職員に死傷者は無く、油田施設も合わせて、無傷で確保することに成功した。


 8月20日には、東岸から北上した緒方戦闘団と海軍陸戦旅団1個大隊が弁連戸ピルトンに到達、郊外にあるソ連軍駐屯地を占領したが、リマレンコ大将は北樺太北部に逃走した後であった。


 この日も日本軍地上部隊は北上を継続し、奥端の街を完全に占領下に置くために、陸海空軍の空挺部隊が投入された。

 投入されたのは、陸軍第一空挺旅団と、海軍第一空挺陸戦連隊、空軍第一空挺連隊で、日本軍としては実戦で初めて、空挺戦車が空中投下にて投入され、奥端市街地に立て籠るソ連軍に対し、砲撃を行い、戦意を挫き、奥端占領の一助となった。


 奥端が占領された頃、ソ連軍は、鵞小門エリザヴェータ岬方面へと後退を開始し、リマレンコ大将も、同地に居ることが確認された


 そして、8月21日現在、日本軍は、鵞小門がおと岬がある鵞小門シュミット半島に集結、北樺太の占領地の警備は、国家憲兵隊と陸上保安庁に任せて、北樺太へ侵攻した日本軍地上部隊は、ソ連サハリン防衛軍に相対し、最後の降伏勧告を行っていた。



 この地に来るまでに、少なからぬ損害を出してしまった…

 内心に辛い気持ちを滲ませながら、緒方大佐は、前面に見える塹壕陣地を見渡した。

 「諸君、まもなく降伏勧告は終わり、我らは攻撃を開始する。 リマレンコはあの向こうにいる! 死んでいった者達の為にも、なんとしても奴を捕まえねばならん。」

 緒方は、指揮通信車から無線機で戦闘団各員に激を飛ばし、しばし目を閉じて、この地に来るまでの戦いを思い出していた…


 縫江郊外での戦闘で、待ち伏せ攻撃で戦車1両を喪い、歩兵と戦車兵、合わせて6名が戦死、11名が負傷した。

 緒方戦闘団としては、北樺太侵攻に於ける、初の本格的な戦闘であった。


 弁連戸では、敵戦車隊8両が決死の突撃を敢行し、歩兵戦闘車2両が餌食になり、7名戦死、5名が負傷。


 奥端西部の戦闘で、後方に浸透した敵歩兵部隊の攻撃で、戦闘工兵車1両と、工兵10名が戦死、12名が負傷。だが、我が工兵中隊は、自衛火器のみで敵歩兵部隊を返り討にし、捕虜までとってみせた。


 緒方はこの時、負傷してもなお戦おうとする兵や、息を引き取る際に、「仇を討ってくれ。」、「俺のぶんまで戦って、生きてくれ。」と、言う兵の言葉を聞き、戦場には、戦争映画や物語に付き物の、"泣き言"など存在しないと思い知った。

 アドレナリンのせいかもしれない…

 皆が覚悟を決めた職業軍人だからかもしれない…

 だが、確実に言えることは、敵を殺し、勝つことしか考えてはいなかった。

 戦場の将兵、全てがそうであったかもしれない、如何にして勝つか、如何にして生き残るか、如何にして敵を殺すか、如何にして敵軍を殲滅するか。

 逆侵攻開始から、戦闘が始まってから、その事だけを考えてきた。


 だがそれも、眼前の敵軍を蹴散らし、リマレンコ大将を生け捕りにすれば、全て終わる。

 前線の将兵の仕事は終わり、後は、中央の軍人と政治家、官僚の仕事になる。


 橘戦闘団も塩見戦闘団も、ここ、鵞小門半島に集結し、海軍の陸戦旅団も展開している。


 「まもなく、この紛争が終わる…」

 緒方大佐が、そう呟いた時だった。


 「緒方戦闘団長! ソ連樺太防衛軍司令官代理ナボコフ中将から至急連絡です。」

 通信手が大声で告げてくる。

 ナボコフ中将? その名は聞き覚えは確かにある、だが、司令官代理とはなんだ?

 緒方は、一瞬呆気にとられた。


 「司令官代理? ナボコフ中将? なんと言っているんだ?!」

 緒方は、疑問点ばかりあるその人物からの連絡の内容を、若干苛立ちながら通信手に聞いた。


 「ソ連 樺太サハリン防衛軍ナボコフ空軍中将より、日本軍各隊へ。リマレンコ大将を拘束した、リマレンコ大将を日本軍に引き渡す、軍使を送り降伏を申し出るとの事です。」


 陸軍情報部の情報によれば、紛争勃発時、樺太のソ連空軍が、ソ連陸軍の南樺太侵攻部隊と連携がとれていなかったのは、樺太のソ連空軍指揮官ナボコフ中将のサボタージュが原因で、その後彼は、リマレンコ大将に抗命行為として咎められ、拘束されているとの事だったが…


 後に判明した事だが、ナボコフ中将は、拘束された後は、リマレンコ大将の目の届く場所に、一緒に連れ廻されていたとの事だ。

 そんな彼が拘束を解かれ、逆にリマレンコを拘束したのは、彼の部下達の助けがあったからだ。

 樺太のソ連空軍の航空戦力は、日本軍航空戦力等の攻撃により、早々に壊滅し、生き残った搭乗員も地上要員も、全員が即席の歩兵として、陸軍部隊に編入され、鵞小門半島まで陸軍と共に、転戦していた。

 その彼等が、樺太での紛争を無意味に感じ、紛争の首謀者であるリマレンコ大将の拘束を企て、それに陸軍将兵の一部も協力し、ナボコフ中将を開放した後に、リマレンコ大将を拘束したというのだ。


 最後は、実に呆気なかった。

 緒方大佐自身も、勝ったという実感が湧かない、その事を実感するには、暫しの時間が掛かった。だがこれで、樺太での戦闘は終わった。

 いや、樺太・千島、オホーツク海を舞台にした紛争が終わったのだ。




同年同日13時過ぎ 東京 軍部府


 東京特別市の市ヶ谷にある軍部府、ここの地下にある統帥本部に、今、内閣総理大臣が来ている。

 「海江田首相、永田軍部相、後の仕事は政治の仕事に成ります。ここから先、我等軍部が、軍人が出来る事は、軍事的見地からの助言になります。」


 「児玉統帥本部総長、お疲れ様でした、前線で戦った多くの将兵、亡くなった将兵に、敬意と哀悼を…」

 海江田首相は深々と頭を下げ、永田軍部大臣も、続けて頭を下げた。


 「痛み入ります。リマレンコ大将は今、豊原の第5旅団司令部に移送中です。ソ連樺太防衛軍司令官代理を自称する、ナボコフ中将も同様です。」


 「児玉総長、シベリアも上手く行きそうだね。」

 永田軍部大臣は、真顔ではあるが、内心では歓喜しているような声色だ。


 「はい、北天ほくてん作戦は、軍部と国家情報局が共同で実施してきた、長年の工作です。実行されたからには、失敗は出来ませんし、油断も許されません。明智君をはじめとした、明石機関の各員と、シベリアや中央アジアの諸民族の奮闘に賭けるしかありませんが…」

 北天作戦は、シベリアや中央アジアの諸民族の反ソ連感情と独立機運を高まらせ、東西冷戦の際に、時を見て実力行使を実行し、ソ連の版図を著しく狭める為の工作で、第二次大戦後から計画され、実施されていた作戦である。

 明石機関の名は、日露戦争の戦中戦前に、ロシアの地で諜報活動を行っていた、明石陸軍大将の名からとられた名で、明智工作機関長で三代目、初代は土岐、二代目は斎藤という者たちであった。


 「永田大臣、児玉総長、その件に関しては朗報がある。どうやらエリツィンは、シベリアや中央アジア、西アジアにバルト三国、東欧諸国のソ連からの離脱を止める気は無いらしい。」


 「本当ですか?!」

 永田大臣が、驚きの声を上げた。


 「間違いないはずだ。国家情報局が、ソ連国内の電話や無線を傍受した所によると、彼はソ連の、ロシアの内政、経済の建て直しを優先したいとの事だ。他所のソ連構成国に構っている暇はないとね。」


 「確かに、今のソ連情勢を考えると、その判断にも納得出来ますが…」

 私は、いまいち納得出来なかった。今迄の歴史で、苦労して拡げた版図を、そう易々と棄てれるものなのかと。


 「児玉総長、ここだけの話だか、エリツィンはモスクワでの勝利を核心していてね、私に秘匿電話を掛けてきて、こう言ったんだ。「北樺太を買い取らないか?」、とね。」


 まさかとは思った、首相の目を見ても、冗談を言っている目ではない。


 「どうやら彼は、ゴルバチョフに取って代わる気でいるらしい。ソビエト連邦の崩壊も、時間の問題だ。」


 「成る程、それなら我が国は、幕末、明治から長年続いた北の驚異を排除出来ますな、総理。」

 この時の私は、人生で初めて、"勝利"という感覚を実感した。

 講和条約が結ばれるまで、油断は出来ない、「勝って兜の緒を締めよ」を思いだしつつも、統帥本部総長として、帝国軍人のトップとして、最高の瞬間であった。




同年同日20時 東京 外務省


 北樺太の占領と、リマレンコ大将の逮捕から約5時間後、モスクワにてロシア共和国大統領エリツィンが、反改革派(保守派)によるクーデターが未遂に終わった事を国の内外に宣言した。


 それと時を同じくして、日本の外務省において、外務副大臣とソ連駐日大使が、会談を開いていた。


 「高田外務副大臣、エリツィンロシア大統領の発言に間違いはありません。それと、クリミアのゴルバチョフソ連大統領の元に、代表団を直ちに送るとの事です。」


 「ニコライ・チジョフ大使、再び此方に来ていただいたのは、8月革命未遂の件もありますが、樺太・千島紛争の件が我が方には重要です。」

 高田は、えらく涼しい顔で言ってくる。勝った側の余裕というやつか…


 「もちろんです、高田副大臣。ですが、我が祖国の混乱もご配慮頂きたく。」

 私は、早くこの国から逃げたしたかった。祖国ソ連も混乱の極みにあるが、この国で集中攻撃されるよりはマシだ。


 「では、改めて申しあげますが、我が国は貴国に、此度の紛争の謝罪と保証を要求します。第一に北樺太の割譲。第二にオホーツク海の排他的経済水域の我が国の指定による決定。第三に賠償金1兆円。第四に…」


 高田副大臣の要求を聞くたびに、頭が痛くなる。

 リマレンコ大将と、ソ連サハリン防衛軍の将兵の生き残りは全て捕虜となり、日本軍に抵抗したロシア系市民も逮捕されている。

 実に頭が痛い事実だ。

 反改革派の連中にはイライラさせられっぱなしだ。連中の殆んどは逃亡したと聞くが、奴等がした事は、ソ連の崩壊を早めただけだ。


 バルト三国の独立問題も含め、ソ連の団結どころか、崩壊を早めた、現にシベリアや中央アジアでは少数民族の武装蜂起が起こり、西アジアの構成国でも独立宣言をし始めた。

 もし、こんな情勢でなければ、日本にシベリアや中央アジアの武装蜂起の件を、「日本が手引きしたんだろ!」と、問いただしたかったが、今は我が祖国の外交能力、内政能力が著しく低下している。

 下手につつけば、逆に日本に利する事になるかもしれない…


 これも全て、反改革派、国家非常事態会議の連中のせいだ!

 頭が痛い、心なしか、胃も痛くなってきた…

 早く大使館に帰って、ヴォトカを呑みたい…



 ニコライ・チジョフ駐日ソ連大使は、この後もしばらく、外務省に留め置かれ、後に彼は、日ソ樺太・千島紛争の講和条約にソ連側代表者の一人として、調印することになる。




同年8月23日10時 ウラル山脈南部


 この時を以て、シベリア共和国は、ソ連政府との間に休戦協定を結び、極秘事項ではあるが、シベリア共和国の独立をソ連に承認させ、同年9月5日に公式に発表する事になった。

 休戦協定では、ウラル山脈の分水嶺、アジアとヨーロッパを分ける境界線を境に休戦ラインと非武装地帯を引き、国連の休戦監視の為の平和維持軍を受け入れる事にした、また、中央アジアのソ連と国境を接する国も、同様に平和維持軍を受け入れる事となった。


 捕虜としているソ連将兵とソ連行政職員、鹵獲した武器、兵器は、国連の監視下で、ソ連へと返還されるが、一部の武器、兵器は、独立を果たしたシベリア共和国や、中央アジア諸国が管理することでも、合意がなされた。


 アフガンで疲弊していたソ連軍と、8月クーデターで混乱したソ連政府に、かつてソ連構成国だった国の独立を止める力は、残されてはいなかった。


 かつての大国も今は昔の話となり、実質的にソ連に残るのは、ロシア・ソビエト共和国のヨーロッパ側地域のみとなることが、この時点でほぼ確定した。



 ザグンヴァイは、休戦協定にシベリア共和国代表者として調印し、今は緊張が溶けたのか、ホテルの一室でウイスキーを呑んでいる。


 「明智、これから君はどうするんだ? 日本に帰るのか?」

 ザグンヴァイは、ソファーに座り足を組み、テレビのニュースに耳を傾けつつ、ゲバラみたいな髭面をこちらに見せている。


 「いや、ギリヤーヌ臨時大統領から、残ってくれと言われてね、残るつもりだよ、この国に。」


 「本当に!? 国に帰れば君は英雄だろ!」

 ザグンヴァイは、持っていたウイスキーのグラスをテーブルに置いて、私を凝視する。


 「そんなことはないよ、裏方の仕事をしただけだ、明石機関もこれでお役御免。国にはもう、辞表を出したよ。」


 「でぇ? ギリヤーヌは君に何をしろと言うんだ?」

 ゲバラ風の男が、おどけた風な仕草をみせている。


 「私の天職だよ。シベリア共和国に創られる諜報機関の顧問だ。」

 ニヤけて言ってみせると、なぜだか二人して笑っていた。

 この、シベリア共和国の前途が、幸多き事を…






2001年9月11日21時45分 樺太


 1991年9月5日、日ソ両国政府の間で、「豊原講和条約」が結ばれた、この講和条約により、「日ソ樺太・千島紛争」は公式に終決し、日本は正式に北樺太を日本領とした。

 またこの日に、シベリア共和国、カザフスタン共和国、キルギスタン共和国、タジキスタン共和国、トルクメニスタン共和国、ウズベキスタン共和国という、シベリアと中央アジア諸国の独立が、ソ連により正式承認され、翌日にはバルト三国、ジョージア共和国、アルメニア共和国の独立も承認された。同年12月26日には、東欧諸国の独立も承認され、ソ連は完全に崩壊し、民主共和制国家の「ロシア連邦」が誕生した。

 ロシア連邦は、かつての16世紀頃のモスクワ大公国に近い版図を持つ、欧州の一国家となり、初代大統領として、エリツィンが就任した。


 日本の周辺からは敵対的な国は完全に駆逐され、帝国は一時の平和を謳歌していた。


 世界はといえば、東西冷戦の時代を終え、新たな時代に入って行った。

 実質的に第二次大戦後に、アメリカ合衆国はソ連と正面戦争はせずに、また、他国ともたいして戦争をせずに、世界唯一の超大国となった。

 だが、その冷戦後の時代は、平和な時代とはほど遠かった…


 時代は、対テロ戦争の時代へと突入していく事になる。



 あの紛争から10年の時が経ち、俺は42歳になっていた。

 樺太新聞敷香支社から、奥端支社へ移動になったのが紛争終結から3ヶ月後のことで、あの時が記者として、個人としても慌ただしかった事は覚えてい。

 相変わらず一介の記者ではあるが、あの時、貴重な経験をさせてもらった。



 そう、あれは10年前だ…

 「志儀しぎ 正彦まさひこさん? 志儀海軍中佐の息子さんで、北樺太油田株式会社の社員さんですよね。」


 「そうですが。貴方は?」

 怪訝そうな目で見てくる、無理もない、彼は紛争時、ソ連軍に囚われていたのだから。


 「はた みのると申します。樺太新聞の記者です。」


 「ああ、あなたもソ連に捕まってた時の事を聞きに来たんですか?」

 えらく辟易した顔をする、まぁあ、それも無理は無いだろう。


 「いえ、違います。これからの北樺太の開発についてと、貴方とお父上についてです。」

 志儀正彦氏は、この言葉に驚いたようだが、彼は北樺太油田株式会社でも期待されていた若手社員でもあったから、私は彼を、将来の北樺太の戦後復興と発展を担う事になる人物とみて、取材に赴いたのだ。

 彼からは色々と、興味深い話が聞けた…


 それから4年後の5月24日22時03分、樺太を大地震が襲った。「平成7年樺太北部地震」だ。

 同年の1月17日に発生した、「阪神・淡路大震災」に続く、大災害であり、一年の間に二度起きた大震災に、日本中が震撼した。

 樺太北部地震の発生当時、私は記者として被災地を取材した。もちろん、私自身も被災者ではあったが…

 その、震災の復興を行う上で、北樺太油田株式会社は半官半民の企業として、よく地元に尽くした。

 この時の復興計画の一部は、志儀正彦氏から聞いた案も存在し、彼が確かに、樺太の復興と発展に尽くしているのだと、俺は核心し、感心したものだ。

 そしてその後、再び彼にアポをとり、取材に赴いたものだ。


 北樺太は、樺太全土は、紛争後、震災後、苦難を乗り越えて発展していった。

 日本自体もそうだ、シベリア共和国や中央アジア諸国、西アジア諸国のソ連から独立した国と、経済的に協力し、軍事同盟ではない、経済協定として、「環太平洋・アジア・インド洋経済協」を結び、自然災害を乗り越えて、経済的にこの国は恵まれたままだった。


 だが、環太平洋・アジア・インド洋経済協定の枠組みに無い中東地域が、"21世紀の弾薬庫"となった。


 俺はというと、紛争から10年の間に、妻子に恵まれ、今は家でテレビをつけて、リビングで休んでいる。

 妻は俺と一緒に酒を呑み、息子は部屋で寝入っている。

 その俺の目に見える、テレビで中継されている速報はというと、アメリカ合衆国のニューヨーク、そこにある世界貿易センタービルに突入する、1機の旅客機が映っていた。



 世界からは未だに、争いがなくなりそうにない…




日ソ樺太・千島紛争 ー終ー

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日ソ樺太・千島紛争 極月ケイ @kay-gokuzuki

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