第5話 外務と軍部


1991年8月19日03時頃 東京特別市


 00時30分頃に、ソ連軍の南樺太への越境侵攻が確認されてから15分後、日本帝国政府の外務省は、日本駐在のソ連大使らを外務省本省に呼び出していた。


 ニコライ・チジョフ大使は、日本の外務省に着き、1時間以上が経過した今、寝不足と疲労感から、憔悴しきっていた。

 彼の他に、駐在武官のセルゲイ、大使館員のミハイルの2人が居るが、3人とも、椅子に座ったまま、焦りと疲れのいろを隠せずにいた。


 我々の向かい側には、日本の政府職員数名が、椅子に腰掛け、まるで犯罪者を見るような顔で、こちらを見ている。

 真ん中の椅子に座るのは外務副大臣だ、その右には軍服姿の国家憲兵隊の大佐が、左には、かつては特別高等警察と呼ばれていた公安警察の警視が、わざわざ制服で、しかも公安警察と一目で分かる、赤い線の入った階級章を付けて座している、"赤を狩る赤"と呼ばれる由縁だ。大佐の隣には、恐らくは国家情報局の職員であろう男が1人、警視の隣にももう1人、こちらは外務省職員か、他の政府職員であろう女が座っている。

 外務省本省の一室で、外交交渉とはとても呼び難い会話が行われているのだ。


 呼び出しの時も、私の着任以来で初めてで、それは酷いものだった。

 日本時間の夜中の0時50分に、大使館職員が寝室にやって来て、私を叩き起こした。

 よりによって深酒をした後だ、ヴォトカが抜けきってはいない。


 「こんな真夜中に何事か!?」

 「同志大使! 大変です! 日本の外務大臣から直接電話です!」

 「こんな真夜中に…」


 あの電話に出てから、気が休まらない…

 酔いも覚めてしまった…

 日本外務省が指名した2人の名を聞いた時は、特に胆が冷える思いがした…


 日本の外務大臣からの電話に受け答えしている間に、我がソ連大使館は、包囲されていた。

 外務大臣曰く我々の身の安全を保証する為らしい。ならば何故、警察ではなく、国家憲兵隊が大使館を囲っている?

 「日本は気でも狂ったのか!? 我らを祖国に対する反逆者と見ているのか?」


 外務省の庁舎がある霞ヶ関に行く迄も、まるで護送というよりは連行の様な有り様だ…

 大使館の玄関にまで護送に来たと言う、国家憲兵隊の隊員が4名押し掛けて来て、普段は敢えて、大国としての威信を示すために遅刻していく霞ヶ関へ、公用車を飛ばして行く事になる。なにせ、公用車の前後左右を憲兵隊の車輌に囲まれているのだ。

 前を走る33式小型トラックは、荷台の銃架に取り付けられた機関銃をこちらに向け、後ろを走る47式偵察警戒車の派生型の、48式装輪戦闘車は、35㎜単装機関砲を向け、左右は軍用サイドカーに囲まれ、やはり銃口をこっちに向けている。

 「これではいつもの様に遅刻は出来ない…」

 運転手の顔も、青ざめて、今にも吐きそうな表情だ。

 日本の外務大臣から名指しされた、駐在武官のセルゲイと、大使館員のミハイルも同乗しているが、2人は流石と言うべきか、顔色一つ変えずに落ち着いて見える。


 公用車は、普段は出さない様なスピードで道路を走り、外務省本省に向かい、到着した。


 電話をかけてきた外務大臣は、外務省には居なかった。

 代わりに出迎えに来たのが、外務副大臣の高田だった。彼はロシア語が堪能であるそうだが、何故かいつもロシア語通訳者を伴っていた、だが今日はその通訳者は居ない。

 彼の他は、外務省職員1人と、民間の警備会社の警備員が2人。

 我がソ連大使館の周囲と、護送迄が異様であって、この外務省の庁舎は、普段と変わらないように見えた…

 だがそれは、玄関口までであった。

 エレベーターから上の階へ行き、部屋へと案内されると、そこには今、向かいに座っている軍人や警官がおり、起立して、姿勢を正しているが、腰にはホルスターがあり、拳銃を携帯していることを見せ付けてくる様に見えた。

 背広の男は、ジャケットの内側に拳銃を携帯し、武装していないのは、外務副大臣と、政府職員と思われる女性だけであった。

 「これでは捕虜ではないか…」


 着席を促され、私達3人は席に座った。長いテーブルの向かい側にいる彼等も座ると、外交交渉ではない、尋問のような一方的な質疑が行われた。

 「先ず私、高田がお伺いしますが。 ソ連 樺太サハリン防衛軍による、我が日本に対する越境侵攻についてですが…」

 「待ってく下さい高田副大臣! 外務大臣に電話で聞いたのが初耳であり、本国からは何も事前連絡などないのです。」

 「では、大使閣下は、これは意図しない紛争、事変であると?」

 「それよりも、あなた方日本が、先に先制攻撃を仕掛けて、我がソ連軍が反撃したのでは。」

 「大使閣下。 面白い事を仰いますな。 我が方は一個旅団、あなた方は二個師団、我が帝国軍は、兵力の優劣を気にせずに闘いを仕掛けるような愚は致しませんよ。」

 私と高田の話しに、高田の隣にいた国家憲兵隊の大佐が割って入ってきた。

 「幸か不幸か、国境警備をしていた我が軍の兵らが、証拠となる映像を録画しています。 ご覧になりますか? 大使閣下。」

 大佐は嫌味な顔つきで見てくる、なんと言うことだ、どうやら日本側の言い分に、間違いはないらしい。

 「では、拝見させて頂こう。」


 ビデオテープがデッキに入れられ、テレビ画面に映像が映し出される。

 湾岸戦争の開戦を知らせたテレビ中継のように、緑色の暗視装置越しの映像で、右上には時刻が、日本標準時で秒刻みで表示され、0時0分になった頃、それは起こった。


 風を切るような音が聞こえ初め、それが鳴りやんだと思えば、爆発音が聞こえ始めた。

 日本側の施設が破壊されて行き、土が空を巻い、木々は倒れ、草地からは火が上がる。

 30分近くこの様な映像が続いたが、砲撃が止んだ後、すかさず我がソ連軍の機甲部隊が越境する姿が映し出された。

 ここで映像は停められた。


 「これは編集されているのでは?」

 そうではないと解ってはいたが、こうとでも聞くしかなかった。

 なんたることだ? 党は何故、事前に我らにこの事を伝えていなかったのだ?


 「大使閣下、編集はされていません。念のためビデオテープを預けましょうか?」

 恐らくは、国家情報局の職員であろう男が告げる。

 何て屈辱的なんだ…


 「それと大使閣下、セルゲイ駐在武官とミハイル大使館員についてなのですが、逮捕状が出ています。」

 「!? なんですと?」

 公安警察の警視が、突然告げたものだから、流石に驚かされた。

 「これはこれは、一体なんの罪で? 警視はウィーン条約をご存知ですか?」

 「外交特権ですか… まぁあ、それは置いといて、彼等の罪状といいますか、罪の内容を申し上げましょうか。」


 私にはその、罪の内容とやらに心当りはあるが、党から具体的に、この2人が何をしているか迄は知らされてはいない。


 「セルゲイ駐在武官に関しましては、主に我が国の軍事産業と、それに関連する企業の職員に対するスパイ行為。ミハイル大使館員に関しては、主に、我が国の一部国民に対する赤化工作と煽動行為。それに彼は本当はKGB職員だ。これだけ申し上げれば、セルゲイ氏とミハイル氏は察して余りあるでしょうな。」


 セルゲイとミハイルは沈黙したままだが、その額には汗がうっすらと浮かんでいる。


 「大使閣下、話しは変わりますが、貴国には果たして、交渉能力があるのでしょうか?」

 高田外務副大臣が、まるで学生にでも話しかけるような口調で言う。


 「失礼な! 副大臣、あなた方に外交儀礼は無いのか!」

 流石にイラつきを押さえきれなかった。


 「では、今からクレムリンに電話をして頂けますか? ゴルバチョフ最高指導者と直に。」

 高田はそう言うと、国際電話機を手渡して来た。

 「わかりましたが、今はモスクワは夜です、同志書記長はお休みかもしれませんが?」

 「構いませんよ。クレムリンに電話に出れる人間がいるか解りませんがね。」


 高田の言葉が気になったが、私はダイヤルを回し、クレムリンに電話をかけた。

 しばらくコールが続いたが、やっと誰かが電話に出た。


 「私は日本駐在大使のニコライ・チジョフだが、同志書記長とお話したい、取次を頼めるか?」

 「ニコライ同志、ゴルバチョフ同志は健康上の理由により執務不能となった、以後は副大統領のヤナーエフ同志と、国家非常事態委員会が、引き継ぐ、我等の指導に従うように、同志ニコライ。」

 どういう事だ? 国家非常事態委員会?


 「それと同志ニコライ。極東で戦端が開かれている筈だ。我がソビエト連邦は、団結しなければならない。連邦の全共和国は団結して、この危機に対処する。」

 この言葉で、私は察してしまった。ゴルバチョフ大統領は、モスクワ時間の8月20日にソ連を構成する各共和国指導者と共に、新連邦条約に調印し、締結される予定であった。が、それは"国家非常事態委員会"によって阻止されるだろう。

 簡単な話がクーデターだ、そして、ソ連を再び団結させるべく起こされた戦争が、日本の南樺太への侵攻か…

 この戦いを、戦争にしてはならない。私はこの時、こう核心した。

 気付けば、電話の受話器を置いている…


 「高田外務副大臣。どうやら、サハリンで起こった戦いは、ゴルバチョフ大統領の感知する処ではない、意図しないものだ。」

 「では、ニコライ大使、これは戦争ではなく紛争だと。」

 「いえ、一部の反乱分子によるものです。サハリン防衛軍司令官は、反改革派の重鎮として有名でしたから。クレムリンが、今母国がどうなっているか、私には判断しかねます。」

 「ニコライ同志! どういうことですか?」

 私の隣にいたセルゲイ駐在武官が、驚愕した表情をこちらに向ける、ミハイルも声は出してはいないが、同じであった。


 この後、我々は、根掘り葉掘り、高田外務副大臣をはじめとした向かいの席に座る彼等に、質疑に次ぐ質疑を受けることになる。


 早く大使館に帰って、ヴォトカが呑みたい…

 それにキューバ産の葉巻を嗅ぎたいものだ…




同日13時頃 東京特別市


 ソ連ではモスクワ時間6時30分頃に、国家非常事態委員会が、「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で執務不能となり、ヤナーエフ副大統領が大統領職務を引き継ぐ。」と、言う事を対外的に正式に発表。

 モスクワ放送は占拠され、アナウンサーは背中に銃を突き付けられた状態で、国家非常事態委員会の声明を読み上げさせられていた。

 モスクワ中心部には、戦車や機械化歩兵が展開し、反改革派によって、クレムリンの全権は掌握されたようであった。

 後に「8月クーデター」と呼称される政変の始まりである。


 日本国内でも、ソ連でのクーデター発生のニュースが報道機関で放送された頃。

 東京特別市の市ヶ谷台にある軍部府。この地下にある統帥本部の作戦室では、陸海空軍と、国家憲兵隊、軍部府情報本部のトップと軍部大臣が集まり、会議を開いていた。


 統帥本部は、文民の軍部大臣の下にあり、あくまで武官による日本軍全軍の軍事戦略、作戦の立案、指揮、命令を司る機関で、内閣府に軍事的な立場から助言をする組織である。


 「統帥本部総長、南樺太への増援の第一陣が到着した旨は了解した。第5機甲旅団による北樺太への侵攻から始まる北端作戦、内閣は承認しているよ、やってくれ。」

 「では大臣、シベリアにおける作戦も承認されたという判断でよろしいですね。」

 「元帥、そのとおりだ。 いよいよ君ら軍人や国家情報局の苦労が報われるわけだ。」

 「我が国の周辺から、脅威となる国を排除するのは、国家国民の為です。」

 「ああ、成功の暁には、我が国は幕末、明治からの懸案を解決することとなるな。」

 永田軍部大臣と児玉統帥本部総長は、これから行われる作戦の成功を核心していた。

 作戦の成否は、準備段階で決まるといっても過言ではない、後は、戦場で起こることは、現場指揮官の判断如何で決まる。


 「後は、この紛争の落としどころだ。」

 永田軍部大臣が、タバコに火をつけてから呟いた。

 「ソ連の国家非常事態委員会なる反乱者達は、日本による樺太侵攻の脅威から大祖国を守るために、ソ連構成各国に団結を促しましたからな。」

 「そこが問題だ。国家情報局が、開戦がクーデター派ソ連軍からの越境侵攻である証拠映像を衛星テレビで世界中に流し、ラジオも使ってその事をソ連側に流してはいるが… 後は、改革派のボリス氏がどう出るかで変わってくる。」

 「ですが、シベリアで事が起きれば、今の疲弊しきったソ連には対応出来ますまい。」

 児玉元帥は核心を持って、軍部大臣に言うと、笑ってみせた。

 ソビエト連邦は、この時、まさに国家としては末期症状を表していた。


 北端ほくたん作戦は北樺太への逆侵攻作戦のことで、南樺太駐留の陸軍第5機甲旅団から3個戦闘団を編成し、この3個戦闘団が、樺太の中央、東岸、西岸に配置され、三方向から北樺太へ北進する。更に、北樺太東岸の縫江ノグリキへは、海軍の第1陸戦旅団が上陸し、橋頭堡を確保、第1、第2大隊は北上し、第3大隊は南へ進み、北上する戦闘団と共に、敵部隊を挟撃する。なお、これに先立ち、ソ連軍に対して、海軍により艦砲射撃と、海空軍による空襲が実施される。

 また、海軍の特殊部隊、特別陸戦隊の2個小隊が、奥端オハの北樺太油田株式会社の施設を確保し、人質である捕らわれた日本人職員を救出する。

 最終的には、北樺太全土を制圧し、ソ連軍の樺太サハリン防衛軍司令官である、リマレンコ大将を逮捕(生捕り)するというものだ。



 だが此れは、北樺太だけで行われる作戦に過ぎない、シベリアでは、もう一つの重要な作戦が実施されようとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る