第六話 姉妹の契り

 衣装部屋なのに、部屋の隅に黒くて小さいスピーカーが二つ並んでいて、ソプラノの歌声が響いていた。小鳥が水面を啄んでいるような、かわいらしく軽快な曲だ。

「着替えるときも、音楽があるんですね」

「もちろん。だって、ここから別世界へ誘われるのよ」

 彼女は僕の肩をふわりと押して、ドレッサーの前へ促した。柔らかな白いスツールに座らされる。たちまち、大きな三面鏡に僕の戸惑い顔が映った。女子みたいだと揶揄される、頼りない顔……

「本当に、綺麗な顔ね」ヒマリさんが淡いため息をついた。「ずっと思っていたの。ぱっちりした目も、長い睫毛も……ああ、肌も滑らかね。まるで白磁みたい」

 目が大きいとか睫毛が長いとか、女子に囲まれて散々言われたことがある。あの時は鬱陶しくてたまらなかった。触らないで、やめてよ、と抵抗しながら逃げて……でも今、僕の体は動かない。

「ちょっと待って、そのままでもいけるかも……」ヒマリさんはいつの間にか、真っ白い毛の塊を両手に持っていた。それは人の頭皮の形をしていた。ウィッグだ。

「髪、短いからネットがなくてもいけそうね。じゃあ、ちょっと触るね……」

 と言い置いてから、ヒマリさんが僕の頭を抑え、髪を撫でつけてから白いウィッグを被せこんだ。ぐいぐいと締めながら微調整されていく。その間、ヒマリさんの服の袖が視界を覆って、今どうなっているのかまったく見えない。

「よし。さあ、見てみて……」

 視界が開け、僕はたまらず声を上げた。

 まず、強烈な違和感があった。僕の顔の外側を、緩やかに波打つ白い髪が肩のあたりまで覆っているのだ。

「あの、これ、絶対、似合ってないような気がします!」

「見慣れていないだけよ。すごくかわいいよ」

 僕の抗議には耳を貸さず、ヒマリさんはドレッサーの小さな引き出しを次々に開けて、様々な化粧道具を取り出していく。

「見ていてね……」

 と、妖しく囁いて、小瓶の蓋を開け、中の液体を手に取る。冷たい水のような感触が僕の頬に優しく押し当てられる。何度も何度も、少しずつ、頬が湿り気を帯びていく。

 それからはあっという間だった。僕はただ鏡の前で座っているだけ……ヒマリさんが右へ左へ、身を乗り出しながら、粉をはたいたり柔らかなブラシを当てたりしていく。

「目はほとんど弄らなくてもいいかな」と、僕の白い前髪を掻き上げて呟く。「綺麗な眉……本当、羨ましいくらい」

 薄らと載せられたアイシャドウ。薔薇色の頬紅。だんだん、鏡の向こうの「賢嗣」が隠れていく。代わりに現れるのは……

「仕上げね」

 後ろからヒマリさんの冷たい左手が僕の顎を押さえ、右手でゆっくりとリップクリームを僕の唇に滑らせる。その上を、ぷるりと透明なチップがなぞっていく……

「できたよ」

 瞬きをした瞬間、鏡の向こうに見知らぬ少女が座ってこちらを見つめていた。

 あれは、だれだ。

「アリス」ヒマリさんがゆっくりと呟いた。「アリスよ、あなたはアリス」

 アリス。あれはアリス……

 アリスの仮面が僕の顔に表れていた。

 アリスとなった僕はヒマリさんの導くままに立ち上がり、彼女の手から服を受け取った。大きなリボンタイのついた白いブラウス、闇色のハイウエストのスカート。後ろは青いリボンで編み上げられている。

「着かた、わかる?」

 僕はうなずいていた。初めて手にするロリィタなのに、まるでアリスがすべてを知っているように……

 実際、僕はたったひとりでブラウスを羽織り、釦を留めてタイを結び、スカートを履いた。薄い胸の下まで持ち上げて、後ろ手にリボンを結ぶ。ぐっと締めると、なんだか体がしゃきりとする。

 ヒマリさんから他にも渡されているものがあった。白くてふわふわとボリュームたっぷりに広がったスカートと、同じく白い半ズボンのようなパンツだ。スカートはパニエ、パンツはドロワーズというらしい。いずれもたっぷりのレースやフリルでできていた。たぶん、スカートの下に履くんだろう……僕は自分の下着の上にレースのパンツを履き、スカートの下に白いスカートを入れ込んだ。すると黒いハイウエストのドレスは美しい形に膨らんだ。ふわり、ふわり。歩くたび、振り返るたび、軽やかに翻る。

 ノックがしたので返事をすると、ゆっくりと扉が隙間を作り、ヒマリさんがこちらを覗き込んだ。そして、その目が歓喜に躍り上がった。

「ああ!」

 ため息とも歓声ともつかぬ声を上げて駆け寄ってくる。そして、僕の体を強く抱きしめた。

「なんて……なんてかわいいの! 思った通りだった。わたしのアリス……」

 至近距離から甘い香りが鼻腔を包み込む。くらくらと眩暈に似た感覚が押し寄せ、僕は思わず後ずさる。

「ああ、ごめんなさい。あまりに素敵で……」

 ヒマリさんはもう一度僕をドレッサーの前に座らせた。彼女は最後に、青いリボンと黒い薔薇でできた豪奢な髪飾りを持ってきて、僕の頭に被せ、リボンを顎の下で結ばせた。

「素晴らしい……生きた芸術品……わたしのアリス……」

 感極まったように、彼女はしばらく動かなかった。鏡に映ったアリスの顔をじっと眺め、目を潤ませる。

 ヒマリさんは僕の手を取り、扉の向こうへ連れ出した。

「こっちよ。さあ……スケッチブックは持ってる?」

「はい。――あの」

 通路の角を曲がった先に扉があった。金の貝殻の取っ手が明かりにきらめいている。きっとあの部屋だ。

「その、ヒマリさんは昨日、契りがどうとかって……」

「それならもう、済ませてあるよ」

 彼女は悪戯っぽい笑みで僕の唇に軽く触れた。

「わたしのリップをあなたにあげたもの」

 リップ? 確かに、塗ってもらった覚えはある。だけど、あげた、とは。

 ふと思い至って、鞄をまさぐった。すると外側の小さなポケットに何やら細くて硬い感触を探り当てる。取り出してみると、シャンパンゴールドのプラスチックが僕の指先に収まっていた。

「そんな、もらうわけには」

「返したら、わたしと姉妹でなくなるよ」

 リップを持つ僕の手に冷たい手が重ねられる。

「それでもいいの?」

 僕の手から力が抜ける。リップはポケットの中に収まった。

 ヒマリさんが金の取っ手を掴む。

「姉妹の証。大切にしてね、アリス」

 そう、情感たっぷりに囁いて、扉を押し開けた。ヒマリさんからいつも漂う甘やかな香りが一層強く、部屋から溢れ出す。

 視界いっぱいに幻想世界が広がっていた。金に縁取られた薄緑の壁に囲まれ、黄金の馬車が刺繍された絨毯に、白と金で統一された優美な家具たち……そして何より目立つのは、純白のカーテンが垂れ下がった天蓋付きの大きなベッドだった。ギャザーやドレープたっぷりのカバーがかけられた、おとぎ話のようなベッド……

 扉の向かいの壁に大きな出窓があった。窓台にもこもこした柔らかそうなブランケットやフリルのついたクッションがいくつも敷き詰められている。瞬間、気がついた。僕の部屋から初めてヒマリさんを目にしたとき、彼女が座って足を伸ばしていた出窓だ……

 窓に近づき、レースのカーテン越しに見える景色を確認する。やはり、僕の家が見えた。二階の小さな四角い窓は間違いなく僕の部屋だ。

「ここは、ヒマリさんの寝室なんですね」

 振り返ると、彼女は優しい微笑を浮かべた。

「そうよ。秘密の部屋……男子禁制の園だから」

「僕は男子です」

「でも、アリスよ」

 ヒマリさんの冷たい手が伸びて、僕の頬を覆った。柔らかな親指が唇に触れる。

「契りを交わした姉妹なの」

 やっぱり、わからない。人格が入れ替わったわけでも、性別が変わったわけでもないのに、アリスの僕なら部屋に入れるなんて。だけど僕は疑問を呑み込んだ。きっとそういう世界なのだ。これがヒマリさんの世界。僕はただ、そこにお邪魔をしているだけなのだ。

 さっそく、僕はヒマリさんに出窓へ座ってもらった。自分はソファに腰掛け、スケッチブックを開く。

「よろしくね」

 膝の上に手を置いて、彼女は微笑む。

 結論から言うと、うまく描けなかった。頭の中では魅力的な理想の絵ができあがっているのに、手はまだポンコツで、言うことをきいてくれないのだ。

「これからこれから」歌うようなヒマリさんの声。

「課題を提出するころには見違えるくらいになっているよ」

 ヒマリさんが落ち込む僕の元へ温かな紅茶を運んでくれる。

 二人でソファに座って紅茶を啜った。

 視界いっぱいの優雅な世界。豊かな香り。隣に美しいお姫様。そして、自分の手を動かすごとに揺れる袖のフリル……時折視界にかかる白い髪……

 ここは幻想世界。楽園なのだ。もう、小さな疑問なんてどうでもよくなった。ここでいつまでもこうしていたい。ヒマリさんとこの部屋で、ただ時を過ごしていたい。

 時というものは、名残惜しく思うほど早く過ぎていってしまう。壁に掛けられた白い時計のベルが何度目か鳴り響き、僕ははっと顔を上げる。

 五時前だ……!

「僕、もう、帰らなくちゃ」

 ヒマリさんも時計を見上げ、「あ」と呟く。

「そうね……もうそんな時間……」

 彼女は僕の手を取り立ち上がらせた。

「着替えなくてはいけないね」

 寂しそうな笑みだった。

 母に電話をかけ、これから帰ると伝える。

『わかったわ。今どこ?』

「駅前だよ。歩いて帰るから」

 衣装部屋でひとり、上から順に服を脱いでいく。スカート、ブラウス、パニエ、ドロワーズ……僕をアリスたらしめるものが次々に剥がれ落ち、無骨で無味簡素な衣服が肌を包み込む。

 着替えるとヒマリさんが入ってきて、化粧を落としてくれた。その間、どちらとも無言だった。アリスの仮面は影に潜み、輝くような白い髪が短くぼさついた黒髪になる。「賢嗣」が戻ってきた。

 家の自室でひとり、「アリス」でいた時間のことを考えると、ふわふわした妙な気持ちになる。まるで現実ではないような……白昼夢でも見ていたんじゃないかとさえ思えてくる。だけど紛れもなく現実だ。スケッチブックには不格好な鉛筆画がたくさん残っている。

「アリス」でいたとき、今でも本当に不思議だけど、僕が持つ本来の「賢嗣」の感情はそのままに、「アリス」として自然と振る舞えていたように思う。ヒマリさんに手を取られ、強く抱きしめられたとき、「賢嗣」はただどきどきと戸惑っていたけれど、「アリス」には親愛の感情が芽吹いていた。幼い頃に離ればなれになってしまった幼なじみとの再会を喜びあうような、美しい友情が感じられていたのだ。歳も育ちもまったく違う人間同士なのに!

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