第七話 失った時間

 ヒマリさんの衣装部屋でアリスになるとき、初めのうちは薄ら冷たい罪悪感がなかなかぬぐえなかった。背徳感とも言うのかもしれない。広い衣装部屋で服を脱ぎ、黒いボクサーパンツの上に真っ白なドロワーズを履く瞬間が一番緊張していた。一体何をやっているんだろうと自問さえした。だけどブラウスを着てスカートを履き、パニエを入れてしまえば、なんだかどうでもよくなっていた。そして、今ではもう、初めからそんな背徳感なんて感じなくなっている。館についたら当たり前のように着替えるようになっている。

 アリスは、僕がヒマリさんに近づく許可証のようなものだった。寝室という聖域に踏み入れられる唯一の存在。家でも、学校でも、ヒマリさんを思うとき、僕はリップクリームのスティックに触れる。制服のポケットに入れて、部屋のベッドの傍らに置いて、いつでも触れられるようにしていた。


 再び、待ちに待った土曜の昼下がり。館の図書室で本を選び、寝室まで持って行く。レースのカーテン越しに陽光が入り込み、部屋を明るく照らしだしている。豪奢な天蓋の下で寝転んでいるヒマリさんは、隣のスペースをぽんぽんと叩いて示した。

「早くおいで」

 靴を脱ぎ、スカートが皺にならないように注意しながらベッドに上がり込む。音楽理論なんて難しい本を読んでいる彼女の横で、僕が広げたのは冒険小説だった。『魔法使いと七つの鍵』の作者がそれより前に執筆した作品だ。学校の図書室には置かれていないものだ。

 本を広げて持っていると、時折、互いの袖のフリルが淡く触れあう。普段の僕なら――「賢嗣」なら、それだけでひどく動揺しまっていたかもしれない。でも今は「アリス」だ。アリスの仮面は優雅に微笑む。

「ごめんなさい、当たっちゃった」

「いいの。それより、BGMはこれでいい?」

 寝室にもレコードの機器があり、今はショパンがかかっていた。夜想曲四番にさしかかっている。

「はい。これ、すごく好きです」

「わたしも好き。落ち着くのよね」

 それから、黙って再び本を読む。

 ベッド脇のサイドテーブルに紅茶のセットが置いてあり、思い出したときに啜った。

 ヒマリさんは気まぐれに茶菓子を用意してくれた。ベッドに寝そべって本を読み、食べたいときに食べ、紅茶を飲み、図書室に移動してプラネタリウムを観賞する――なんて怠惰で贅沢で、甘美な休日だろう。その中で、僕はヒマリさんの絵を描く時間をもらった。いろんなドレスを着てもらい、目の色も変えてもらい、背景も、ポーズも、たくさん試した。スケッチブックは順調に埋まっていく。最初のページと見比べると、絵は別人のように変化していた。雑多で迷子のような線から、しっかり堂々とした濃い鉛筆の線になっていく。

「あなた、本当に才能があるよ」

 僕の絵を見る度にヒマリさんはため息のような吐息をつく。

「課題提出の頃にはどんな風になっているか、楽しみね」

 美術の課題提出は来週末だ――「賢嗣」が唐突に思い出す。僕は鉛筆を置いた。

「今度、油彩を描いてみたいです」

「油彩、いいね!」ヒマリさんがぱっと顔を明るくした。「まるでルブランとアントワネットみたい……とても素敵。油彩、たぶん道具はあるから、探しておくね」

 ルブラン。どこかで見た名前だ。

 家の自室に戻ってから、机の上に置いたままの美術の教科書を捲ってみた。――あった。僕が以前見つけて付箋を貼っていた。碧のドレスを纏い微笑を浮かべる『セギュール伯爵夫人』……その作者の名だった。スマホで検索をかけると、ルブランはマリーアントワネットのお気に入りの画家であり、友のような存在でもあったという。

 唐突に、館の寝室でヒマリさんがベッドに寝そべり、アリスが絵筆で描いている光景が頭に思い浮かんだ。じわりと、胸が熱くなった。


   四


 朝、学校に行くと、一時間目が始まるや否やテストを返却すると言われた。そうか、今日だったのか……お腹の底が少しざわついた。実は今回の試験は、いつもより自信がなかった。

 昼休みになり、自分の席で返ってきた答案用紙を呆然と眺めていると、横からすっとごつい腕が伸びてきた。

「さーて、俺たちのケンジャ様の答案でテスト直しをさせていただきましょうかねえ!」

 大仰に、だけど小馬鹿にした雰囲気を纏って慎二が呼びかける。すると取り巻きの男子たちが寄ってきて、俺も俺もと僕の答案用紙を奪い合った。

「待ってよ!」必死に手を腕を伸ばしたけど、彼らの背丈には敵わない。

「安心しろよ、今日中に終わらすから……」言いかけた慎二の言葉がふつりと途切れた。「なんだこりゃ」

 国語、数学、理科、社会……各々、手にした僕の答案を眺めながら目をぱちくりとさせていた。

「八十二点!」

「ケンジャ様が!」

「こっちは八十点だ!」

「七十七!」

 次々と好き勝手に人の点数を大声で広めてしまう。僕は齧り付くようにして答案を奪い返した。

「……そういうことだから。僕のでテスト直しなんかできないよ」

「珍しいじゃん」慎二が数学のテストを机に置いた。「そういや、最近おまえ元気がなかったもんな。元々ぼーっとしてたけどもっと酷くなったし、風邪か?」

「ほうっといて」

 ぼんやりしてしまっているのは、日がな一日あの館での時間を想っているからだ。もしくは、どうやればヒマリさんを素敵に描けるかということを考えていた。僕の思考は暇ではないのだ。

「こりゃ大変だな、ケンジャ様。家でかあちゃんに怒られるぞ」

 慎二の言葉に興味を抱いたのは、中学入学からの付き合いの男子たちだ。

「なんで? ケンジャの母ちゃん、厳しいの?」

「厳しいなんてもんじゃねえよ、すげえ恐いの。怒ったら鬼だぜ。俺、何度も見てんだよ、小学校の時……」

 慎二が得意げに語り出した。小学校の時から一緒だった男子たちは、「ああ」と思い出したようにうなずいている。僕はいたたまれなくなり俯いてしまった。

「極めつけは運動会の時だぜ。ほら、騎馬戦あるだろ。こいつ小さいから問答無用で騎手だったんだけど、本番始まって早々、女子に帽子を取られてさ」

「小林だぜ。今、二組で体育委員やってる」

「そうそう、あのごつい奴にあっという間に帽子を取られて負けたんだが、騎馬戦が終わった直後、鬼の形相のかあちゃんが来て、でっかい声でめちゃめちゃに怒り出したんだ」

「『男のくせに情けない!』とか『ケントはもっと堂々としてた』とかだろ。俺、今でも覚えてる」

 彼らが次々に暴露していくのを耳にしながら、僕も当時のことをまざまざと思い出していた。あれは恥ずかしいなんてものじゃなかった。泣きそうだった。あそこで担任の先生が来て、母さんを席に追い返してくれなかったら、本当に泣いてしまっていたかもしれない。

「試験で満点じゃなくても怒るだろ? 俺、三者面談の時、ケンジャの後だったから覚えてるぜ。廊下まで聞こえてきてたし。だから絶対、今日は地獄だろうな。なんせ満点が一個もない――」

「もうやめてよ!」

 とうとう耐えられなくなり、僕は勢いよく立ち上がった。答案用紙を乱暴に折りたたんで鞄に突っ込む。

「君には関係ない、僕の家のことなんて」

「関係ないけど事実だろ」

 非力な僕が多少声を荒げたところで、慎二はまったく動じない。それどころか面白がるように口角をつり上げた。

「どうしたよ、もっと言い返してみろよ。ほらほら、怒ってみろって」

「うるさい!」

 頬が、目の奥が、頭の中が、かっと熱くなる。視界が赤く染まったようだった。気がつけば僕は拳を振り上げていた。

「さあ来い、ケンジャ様!」慎二がはしゃぐように距離を空ける。「頭でっかちじゃないってところを見せてみろよ!」

 机と机の間を駆け抜け、転がっていた椅子を跳び越える。へらへら笑う慎二の顔を見ていると腹の底が煮えくり返りそうだった。油断しきった慎二の眼前に躍り出て、猛然と拳を叩きつける――叩きつけようとした。

 だけど、何かが僕の中で力いっぱい紐を引いた。それと同時に僕の拳の速度は緩み、慎二の眼前でぴたりと止まる。

 慎二は一瞬、呆気にとられたような顔をしたが、すぐにぷっと吹き出した。

「弱虫」

 よわむし。その言葉が僕の脳を突き抜けていく。

「やっぱりおまえ、女みたいだな。いや、小林にもやられてんだから、女以下だ」

 周囲に湧いた笑い声も、その後に続く慎二の罵倒も、耳に入らなかった。

 怒りに狂った僕を引き留めたもの……あれは、たぶん僕の中のもう一つの仮面だった。暴力を嫌って叫び声をあげたのだ。僕は打ちひしがれたように拳を降ろし、嘲笑う声に背を向けた。悔しさと情けなさで、泣きそうなのをこらえるのに精いっぱいだったのだ。


 家に帰ると、慎二の言ったとおり母の怒鳴り声を聞く羽目になった。

「なに、これは!」

 ぱしん、と紙が床に飛び散る。八十二、七十七……赤いペンの跡が視界いっぱいに散らばっている。

「ごめんなさい」

 と、縮こまるしかなかった。だけど当然、これではおさまらない。

「どうしてこうなったの? 勉強の時間を減らしてはいないでしょう?」

「もちろん」――これは嘘だ。最近はもっぱら絵を描いてしまっていた。死んでも言えないことだけれど。

「もしかして、授業でわからないところがあるんじゃないの? 賢人に言って、教えてもらうように言うわ。そうすれば……」

「俺が、なんだって?」

 玄関先から声がした。兄が帰ったのだ。

「ああ賢人、きいてちょうだい」言いながら、母は素早くテスト用紙をかき集め、廊下に出て行った。僕はその場から動けない。

 兄はテニスのラケットを肩に下げたまま入ってきて、台所で水を一杯飲んだ。その手に母から渡された僕のテスト用紙がある。

 俯き加減で突っ立っている僕に、兄が向き直る。

「点数、見たぞ。珍しいな」

 声は母より優しい。だけど、どこか咎めるような目つきだった。

「賢嗣、テストは受けるときより受けた後のほうが肝心なんだ。今夜は付き合ってやるから、テストを直そう。賢嗣が頑張っているのを見れば母さんだって安心するさ」

 今夜、だって?

 はっと顔を上げる。兄の真剣な目つきに絶望する。

 兄は毎晩必ず十二時まで勉強をしている。その時間を僕に充てるつもりなのだ。だけど、そしたら兄は何時まで起きていなくちゃいけないのだろう。

 兄が完全に起きている時に窓から外に出るなんて、さすがの僕も勇気がなかった。万一物音で気づかれたら困るからだ。夜はヒマリさんとの時間なのに……心の中で歯がみする僕のことなど、母も兄も知るよしもない。

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