第五話 アリスの仮面

   三


 薄青い空に流れる雲を眺めながら、ルーベンスの絵の空を連想する。昼の青も夕方の赤も、刷毛で描かれたように見える。

 音楽の時間、鑑賞があると背筋を正して聴き入った。『魔笛』『魔弾の射手』『魔王』……心の琴線に触れた曲について夜中にヒマリさんに尋ねると、レコードで聴かせてくれた。解説のおまけもあった。僕は歌曲が好きらしい。でも壮大なオルガンも好きだし、落ち着いたチェロの無伴奏も好きだ。いつの間にか僕の世界が広がっている。退屈で鬱屈としていた僕の日々は豊かな絵と音に彩られている。

「今度、絵を提出することになったんです」

 洋館の居間で紅茶を啜りながら僕は打ち明けた。

「美術の宿題で……今まで三角錐とか四角形の石膏ばかり描いていたのに、突然、人を描けとかいって」

「へえ」

「確かに、三分クロッキーは毎回やってましたけど、いきなりすぎて……それに……」

 口籠もる僕の本心を見透かしたように、ヒマリさんが口を開く。

「モデル、いないのね?」

 どこか愉快そうな口調に、たまらず目線を逸らしてしまう。

「僕は友達がいないので……」

「誰か、いないの? 好きな女の子とか」

「どうしてそうなるんですか! それに、僕は別に誰のことも」

「わたしでよかったらモデルになるよ」

 頬杖をつき、じっとこちらを見るヒマリさん。今日の彼女は深い紫の瞳をしていて、見つめられていると吸い込まれそうだった。地毛の黒髪を綺麗に巻いて、シンプルな白いワンピースを着ている。

「いいんですか」

「うん。でも、それは学校の友達じゃなくていいのね? 全然関係ないわたしでも」

「関係なくなんかないです」

 思わず口を次いで出ていた。はっと口を噤んだ僕に、ヒマリさんはおかしそうに笑う。

「じゃあ、決まりね。道具はあるの?」

「あります。でも、画用紙一枚きりで、失敗できないんです」

「それは確かに、困ったね。じゃあ、ちょっと待っててくれる?」

 言うなり、ヒマリさんは居間を出ていった。そして戻ったとき、四角い盆を手にしていた。

「今、新品がないのだけど、お下がりで許してくれる?」

 盆の上には分厚いスケッチブックが一冊、そして、鉛筆が五本。

「これは――」

「全部あげる。これで思う存分練習するといいよ」

「待ってください、こんなの、受け取れません」

 スケッチブックも鉛筆も、スーパーやコンビニでは見かけないものばかりだ。明らかに特別な道具だとわかる。

「その、何枚かちぎっていいのなら、それだけいただきますから……鉛筆だって、支給されたのが三本もあるんです」

「HB、B、2B?」

「たぶんそうです。それだけあれば――」

「まあ、とりあえず受け取るだけ受け取ってよ。これ、全部余りなの。わたしのお下がりだし……」ヒマリさんは微笑みながら盆を僕に押しつける。

「新品はお誕生日にでも、ね」

「だ、だめですよ!」

「お願い、受け取ってほしいな。友達の誼と思って」

「よしみ、ですか」

 そこまで言われて、僕も断れない。

 僕はおそるおそるスケッチブックを手に取った。おさがりというだけあって、よく見ると表紙の厚紙の隅が少しよれている。何気なく捲って、僕は驚嘆した。

「これは――」

「あはは、ごめんね。邪魔だったらちぎってくれていいからね」

 スケッチブックの初めの六枚分に鉛筆画が描かれていた。全部人物デッサンだ。いや、人物じゃない……フリルたっぷりの洋服で着飾った、目の大きな球体関節人形たち……

「ヒマリさん、絵も描かれるんですね」

「実はね、小説の合間に、ちょっとだけイラストのお仕事をもらっていたりするの」

 この人は、本当に、何者なんだろう。

 素朴な、走り書きのような鉛筆画。だけどとても温かくて、美しい、一つの絵画作品だった。それが六枚もついて、ただでもらえるなんて信じられない。

「さっそく何か描いてみる? 三分クロッキーでもいいよ」

 言いながら、ヒマリさんはもうソファに座って腕を膝の上に垂らし、ポーズを取っている。僕も急いで新しいページを開いた。鉛筆を選ぶ。

「すみません、どれを使えば良いのか……」

「まずHBあたりで軽く描いてみたらどうかな。でも、クロッキーなら、濃い鉛筆でざくざく思うままに描いてもいいと思うよ」

 言われるままに僕は6Bを手に取っていた。澄ました顔のヒマリさんと向き合い、まずは綺麗な顔から……

 だけど、しばらくすると僕の手は止まってしまった。

「もう三分経った?」歌うようなヒマリさんの声。

「あの……ごめんなさい」

 ヒマリさんの視線が、僕の手元の、ほとんど真っ白なページを見下ろした。

「僕……どうしても、別の光景が浮かんでしまうんです」

「別の光景?」

 言うのは少し躊躇われた。変だと思われないだろうか。心配になりながら、それでも意を決して言う。

「レースとか、ふわふわしたものに囲まれた、王女様の部屋みたいな場所に座っている、金髪でロリィタ姿のヒマリさんの姿が……」

 声はどんどん萎んでいき、最後にはみっともなく掠れていた。言葉にすると本当にばかみたいだ。でも、ヒマリさんは笑わなかった。ただすみれ色の瞳を宙に投げて、真剣に何か考えている。

「レース……ふわふわ……」顎に指先を当ててぶつぶつ呟く。「ないことも、ない……かな」

「本当ですか」

「うん」

「どこに、そんな部屋があるんですか」

「二階よ。確かにそこならあなたの理想通りの景色になるかもしれない。でも、入ってもらうには条件があるの」

 どうしても譲れない条件。と、ヒマリさんは付け足す。ごくりと唾を呑んで、言葉の続きを待った。

 ヒマリさんは真剣な顔で、僕の顔を真正面から見つめる。

「そこは、わたし『ヒマリ』と、その姉妹しか入ってはいけないの」

「姉妹、ですか」

「そう。姉妹とは血縁ではなく、契りね。姉妹の契りを交わした子だけが入るのを許される」

 よくわからなかったが、僕は絶望した。男の僕は姉弟の契りは交わせても、姉妹にはなれない。

「じゃあ、だめですね」

「そうね。でも、あなたの中の、もう一人のあなたなら……」と、ヒマリさんの白い指先が伸びて、僕の胸をとんと押した。

「僕の、中?」

「そう。ペルソナってわかる?」

 今度は何を言い出すんだろう。僕は黙って首を振る。

「仮面とか、人格とか、そう言う意味で使われる言葉なの。わたしね、前からずっと思ってた……賢嗣くんの中に眠るもう一つの仮面について」

「二重人格だと言いたいんですか?」

「違う。ううんとね……」

 ヒマリさんもどう伝えたものか、迷っているようだった。僕の胸に指先を押しつけたまま思案している。

「たぶん、賢嗣くんがロリィタを着て、お化粧をしてみたら、わかると思う」

 意味がわからない。なぜそこで僕が女装をしなくちゃならないんだろう。

「もし賢嗣くんの中にそれがなければ、単なる女装で終わってしまう。だけど、あなたの中の仮面が……仮に、『アリス』と名付けるね……アリスがいるなら、アリスは本来の自分を取り戻して、あなたの中に甦ると思うの」

 いよいよ話がオカルトめいてきた。普段の僕ならそこで真剣に聴くのをやめてしまっていただろう。だけど、僕の目の前にいるのはヒマリさんだ。美しく、才能に溢れ、僕が憧れてやまない存在が、大真面目に話していることなのだ。

「とにかく、僕が一度、ロリィタを着てみれば、いいんですね」

 オウム返しのように口にすると、ヒマリさんはこくりとうなずいた。

「ごめんね。わたしもこんなこと、初めてで。でも、きっと……間違ってはいないと思う」

 もう時間も遅いので、僕の中のペルソナを確かめるのは次回になった。

 翌日は――土曜だ。学校がない。僕は一応写真部に入っていたが、ほとんど参加していなかった。毎回行かなくたって、週に一度適当に撮った写真を提出すればそれで良かったからだ。

 学校がないからといって遅くまでだらだらと寝過ごすことを母は嫌っていた。兄のように朝からきっちり勉強することを望んでいる。起きて、下に降りると母の機嫌は普通だった。

「パンがあるわよ」

「いただきます」僕は食パンを一枚だけ取り出してトースターに突っ込む。

「母さん、今日、昼から外に出てもいいかな」

「どうして? 何かあるの?」

「うん」どきどきと心臓が震えるのを抑えながら、僕は目を逸らす。「友達と――部活で提出する写真を撮るんだ」

「友達?」母の片眉がつり上がる。「そう……それじゃ、町中で済むわね。夕食までに必ず帰ること、帰る十分前には連絡すること。わかってるわね?」

「大丈夫だよ」

 まだ心臓は鳴り止まない。でも、とにかく誤魔化せた……トーストを皿に載せて足早にテーブルへ急ぐ。全身がそわそわとするあまり、ジャムを載せるのも忘れていた。そのまま、味気ないパンを囓り、昼からの時間を思う。

 階段で、兄とすれ違った。

「賢嗣」後ろから呼ばれて振り返る。

「目が赤いぞ」

 反射的に手を目にやった。いわれてみれば少しひりつく感じがする。

「さては、夜通し本を読んでいるな」

「……うん」

「だめじゃないか。母さんが心配してたぞ。この頃疲れた目をしてるって」

「大丈夫だよ。ちょっと……面白い本を見つけちゃっただけなんだ」

「そんなに面白いのか? なんて本だ」

 どうしたんだろう。兄は僕がどんな本を好んでいるのか知っているくせに。もちろん、タイトルを聞いただけで鼻で嗤われるのは目に見えている。

「兄さんが読んだって面白くなんかないよ」

「……そうか」

 兄はふいと顔を背け、階段を降りていった。一体、この会話に何の意味があったんだろう。なぜか背筋に、ほんの少し不穏な感じを覚える。

 午前中、僕はおとなしく宿題を終わらせた。時間が余ったので、昨日もらったスケッチブックを開いてみる。

 ヒマリさんの描いた人形の絵を、一枚一枚丁寧に眺める。どの人形も虚空を見つめ、微笑を浮かべている。ヒマリさんも時々こんな表情をする。……ふわふわした柔らかそうな巻き毛に、フリルのついた鍔広の帽子……豪奢なレースのドレス……まるでヒマリさん自身が人形になったみたいだ。

 僕は新しいページをちぎり取り、ヒマリさんの絵を机の上に立て掛けた。鉛筆を握る。まずはHBで……練習だ。

 人形をヒマリさんに見立てて描き写す。手を動かしながら僕は美術の教科書に載っていたある絵を思い出していた。題は確か、『セギュール伯爵夫人』。深い碧のドレスを着て揃いの帽子を飾った貴婦人の絵だ。教科書のページの中で小さく印刷されていただけなのに、僕は強く惹かれた。あんな風に描いてみたい。ロリィタ姿のヒマリさんを、最高の部屋の中で……

 最高の部屋。果たして、どんなところなんだろう。そこに行くためには、確かめるためには、大きな壁を越えなければならない。ほんの些細なことだ、すぐに終わるはずだ、と頭ではわかっているのに、意識は途方に暮れていた。僕の中のもうひとりだって……しかも、姉妹……信じられない。二重人格ではない、ペルソナといった。僕は手を止め、スマホを取り出す。

『ペルソナ……人。人格。キリスト教で、三位一体論に用いられる概念。(心理学で)社会的・表面的人格』

 三位一体とは、『三つのものが本質において一つのものであること』とある――その瞬間、ひらめいた。まさか、賢嗣という僕を構成するものの一つに「アリス」があると、そう言いたいのだろうか。『表面的人格』……ロリィタを身につけ、化粧を施すことで「アリス」が表に出る……そしてヒマリさんと姉妹の契りを交わす……それを望んでいるということだろうか。

 絵はもう手につかなかった。鉛筆ごと手提げに入れ、時計を見る。昼だ。そろそろ降りて食べなければ。

 家を出るとき、父に呼び止められた。今日は珍しく家にいたのだ。

「久しぶりに、家族で買い物でもと思っていたが――」

「ごめんね父さん。僕、行かなきゃ」

 扉を開けながら笑ってみせる。「兄さんがいるよ。三人で行ってきてよ」

 少なくとも、母さんは兄さんさえいればご機嫌だ。僕は家を出る。

 いつも深夜に訪ねて、今日は突然昼間に来たというのに、まるでそれがわかっていたかのようにタイミング良く、ヒマリさんは玄関を開けてくれた。

「ごきげんよう! さあ、どうぞ」

 当たり前のように通してくれる。寒々しい様相の庭と違って温かい、宮殿のような館の中へ。

 ヒマリさんは金の髪をして、サファイアのような瞳だった。淡いベージュと薄紅の交じったレースをふんだんに重ねたドレスをふわりふわりと揺らしながら、僕を二階へ導く。螺旋階段を上がり、すぐの扉へと……

「準備はいい?」

 扉を開ける直前、ヒマリさんが僕に訊ねた。

 準備も何もない。僕はぎこちなくうなずいた。これから何が起こるのだろう。僕は一体どうなってしまうのだろう。

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